岡山市民の文芸
随筆 −第14回(昭和57年度)−


けさの夫 谷口 竹代


 夫は今年六十八才になった。平均年齢の延びた現在では、まだまだ老人とは言いたくないけれど、近頃とみにその気配を見せるようになり、時折ひやりと感じることがある。
 今日も朝食が終ると、カーペットを二重に敷いたその上へごろりと横になった。そして私が台所の片付けをする様子を、見るともなく見ていたが、やがて目をつむって小さな寝息をたて始めた。
「お父さん、居間へ行かないと風邪をひきますよ。」
「ああ。」
と短い返事をして、ゆっくりと立ち上った。その最初の一歩二歩の足元がふらついた様を私は、はじめて見た。
 半年程以前から習慣のようになっている食後のうたた寝を今もまた、と思い、片付けもそこそこに夫の後を追って行った。夫は新聞を広げていたが、やがて好きな煙草に火をつけ、さも美味しそうに吸い始めた。
 私は朝日新聞の新人国記欄に水の江滝子さんの写真を見付けた。何かをしっかり見つめる眼元、高くて大きい鼻すじ、切れ長の口、それに何よりもあの太い首は、どこから見ても頼もしい男性そっくりである。それを夫のよく見える位置に置いて
「水の江滝子さんは北海道の出身だって。」
「珍しい写真だなあ。もうどのくらいになるかなあ。」
「六十七才と書いてあります。」
 私は小さな声を出して読み始めた。ここを読んでいなかったらしい夫に聞かせるつもりもあって。あまり長文ではなかったが、読み終らぬ間に夫は横になり、両膝を揃えて短く曲げ、いつものように横向きになって小さな鼾をかいていた。
 五月とは言え朝夕はまだ冷え冷えと涼しく、平素から足元の冷えを訴える夫なので、毛布を二枚折りにして、そっと掛けた。
「眠らんから掛けんでいい。」
ゆっくりと低い声で言った。
 私は南側の廊下に出て静かに障子をしめた。外は五月晴れのさわやかな朝の風に、うす緑色に伸びた庭の樫の葉が快くゆらいでおり、ぽつぽつとさつきの蕾が姿を見せ始めていた。
 ガラス戸越しにのぞいた部屋の中には、毛布が短いのか、夫は前と同じ姿勢で横になっている。私は次の部屋から、もう一枚の毛布を運びその上に掛けた。曲げていた左手を外して枕を入れたが、目を覚まさなかった。
 今迄窮屈そうだった頭が急にらくになったように見えた。でも、ふと見た顔は、両の頬骨は高く、顎は骨だけが目立ち、下瞼はやや腫れたようにふくらみ、晩年の疲れを見せていた。いつの間に額の皺がこんなに深くなったのであろう。最近つくづくと正面から見ることの無かった私は寝顔を見て何かしみじみとさせられた。六十八年間の疲れが重なっていたことに私は今日まで気付かなかった。両膝を揃えて横になっている姿のなんと小さいこと。目頭が熱くなったので私は急いで廊下に出た。相変わらず居間からは大きな鼾が聞こえている。
 疲れが戻るまで、ぐっすり眠って欲しい。そして目覚めたら、昨日までのように皮肉まじりの冗談や、おせっかいで家の中を賑わせて欲しいと念ながら、雪見障子のガラス戸越しに夫の顔をもう一度眺めた。



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