岡山市民の文芸
随筆 −第13回(昭和56年度)−


片えくぼ 川口 澄子


 私の子供の頃、田舎の家で母屋を建て替えた事がありました。その時庭の柿の木を切ることになりました。私は大工さんの切っているのを、「柿の木は痛くないかな、もう熟柿が食べられなくなるなあ」などと思い乍ら切り終るまで見ていました。大きな木だったので、家が出来上がった時、その材木は上がり口の敷台になっていました。思い雲形の模様が珍しく、来る人毎に「何の木ですか」と父母達に尋ねていました。そして大きな切り株は庭の隅っこに置いてありました。
 事が起きたのは新築の家で法事をした日でした。親類の人が大勢集まっていました。
 私達子供は御馳走を食べ終ると直ぐに庭へ遊びに出ました。その中に秀ちゃんと言う女の子が居ました。町の親類のおばあさんと来ていました。私はその日初めて会ったのですが、女のくせに乱暴な子だなあと思いました。
 秀ちゃんはキャラメルを一箱持っていました。当時田舎の子にはミルクキャラメルは高嶺の花で秀ちゃんは忽ち羨望の的になりました。
「ハンカチとりをしよう、勝った人にキャラメルを一つあげる」と言い出しました。
 皆、きおい立ちました。キャラメルの一粒は子供達をわくわくさせるのに充分でした。秀ちゃんは男の子達と例の柿の木の切り株を庭のまん中にひっぱり出しました。
 秀ちゃんの言うハンカチとりとは、その切り株にハンカチを掛けて置いて、一せいに走ってそれを取りにいくのです。何度かしましたが、何時も秀ちゃんが強引にとってしまうのです。今度こそと私も必死で走りました。私の手がハンカチに届こうとした時後から押し倒されました。運悪く柿の根っこが左の頬にグサリと突きささりました。
 悲鳴を聞いて祖母と母が跳んで来ました。祖母は血を見ると韮畠の方へ走りました。そのころ田舎では傷口に韮を揉んで付けていました。韮の汁は止血と消毒をチヤンとしてくれた様です。その時も大きな韮のお団子を頬一ぱいにつけて包帯をしました。
 その夜一緒に寝てくれた母にそっと言いました。「秀ちゃんが押したの」母は一寸黙っていましたが、「あの子は可愛そうな子よ」とポツンと言いました。後で知ったのですが、秀ちゃんのお母さんは彼女を実家に置いて再婚したのですが、秀ちゃんは実家では嫌われものだと言うことでした。
 私の怪我については父が「目でなくてよかった」と言っただけで、誰も口に出しては言いませんでしたが、内心随分心配した様です。
 包帯をとった時、祖父母と父母の八ツの眼が真剣に見つめていましたが、私はもう大きな口で御飯が食べられると思い、ニッコり笑いました。すると母が、「マア、えくぼが出来てる」と泣きそうな声で言い、又「子供はすぐ治るから」と自分に言い聞かせる様に言いました。母達の願いも空しく私の頬の傷跡は六十才過ぎた今もチャンと残っています。
 秀ちゃんにはあれきり会っていませんが、大阪の方へ貰われて行ったと聞きました。
 今こうして思い出しますと、あの粗暴さも妙に哀れで、懐かしく、幸せになってくれたかしらとふと祈る様な気持になっているのです。



短歌俳句川柳現代詩随筆目次
ザ・リット・シティミュージアム