岡山市民の文芸
随筆 −第13回(昭和56年度)−


あの一瞬 桑島 一男


 昭和二十年八月六日の朝、私は岡山郵便局電信課の職場で、いつものように非常無線を担当していた。
 非常無線というのは、有線が敵の空襲などで故障になった場合に備えて、あらかじめ用意しておいた非常連絡用の無線機のことで、広島逓信局管内では、広島、岡山、下関、松江、鳥取、米子、浜田の各主要局へ戦局の非につれ、前年末から設置されていた。
 もともと非常用のため常時通信の必要はなく、ただ毎日一定の時刻―たとえば八時、十時、十三時といった決まった時間に、各無線局がお互いに呼び合って感度を交換し、そのとき電報があればついでに二、三通送受し合ってもよいと定められていたのである。
 その朝も、私は八時に無線席へ着席して「EVQ一DEEVQ二カン?」と、定められた喚呼符号で広島を呼んだところ 青く高く澄みきった夏空のせいか感度は上々で、意外に早く広島の応答があった。感度交換はすぐ済んだもののそれだけではもったいないと思ったか、広島から電報があるから受けよとの要請があり、私はこれに応じて受信をはじめた。
 時々刻々空中状態が変化する無線通信にしては、その朝の受信作業は珍しく順調であった。
 一通、二通と短い電報を簡単に受信して、あれは三通目の通信文のあたりを受けていたときだったか。急にそれまではっきり聞こえて来ていたモールス符号のブザー音が、プツッと消えてしまった。
 何か強い電流に消されてか、それとも停電か、あるいは送信機の故障か、としばし私はそのまま待ってみた。そのとき見るともなしに前の通信用時計を見ると、長針が十五分過ぎを示していたのをはっきり記憶している。
 その後二回三回と「カンドウカ」を繰り返して広島を呼んでみたが、いつもなら力強く答えてくれるはずの相手の応答はなく、不審に思って有線の広島回線席へ出かけて状況を聞いたところ、ここでも通信中に突如断線状態となってあとは全然応答なしとのこと。
 その日はとうとう広島との連絡はとれず、他の無線局へ照会した結果やっと遅まきながら広島の異変発生が理解できた。
 なにぶん当時は報道管制の厳しい戦時下、翌七日疎開先の広島臨時無線局から送られて来た機密暗号電報で「ヒロシマゼンメツ、ヒロシマテイシンキヨクチヨウユクエフメイ……」をはじめて知り、余りの大事件に暗号を翻訳する私の手は思わずブルブル震えた。
 そうか、それであの一瞬―八時十五分に通信が途絶えたのか、そうするとあのときの担当者は―と、私はここで愕然とした。
 あとで知ったことだが、広島無線局は原爆投下の真下に位置して局舎は全壊、職員の死亡者は百六十八名の多数にのぼっている。
 あれから三十六年、毎年八月六日を迎えるたびに、「あの一瞬」を忘れ得ない私である。



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