岡山市民の文芸
随筆 −第12回(昭和55年度)−


創ること育てること 村上 碩義


 私には、幸か不幸か二つの仕事がある。一つは建物という建築文化を創造する設計と、もう一つは農業で作物を育てることだ。
 デパート、病院、住宅など、鉄骨造り、鉄筋コンクリート造りといろいろある中で、やはり私は木で住宅を造るのが一番好きだ。
 そこには、他の工法では見られない木の持つ暖かさと、何か心に通うものを感じるからである。より住みよいもの、より価値のあるものを建てたいという施主の考えと、そのような建物を設計したい、創造したいという設計屋との接点があって、木造りをより暖かいものにしているようだ。
 施主の家族との会話の中で、この人はどんな感じの家が造りたいのか、住まいに関する考え方は、家族構成は、予算は……と聞いていくうちに、私の方は設計という世界へ、ぐんぐん引き込まれていくのだ。
 材料は何を使おうか、窓の形はアーチがいいか、壁の色はと、思いを巡らす。考えがまとまらないとき、ふと目にとまった子供のおもちゃからヒントを見出すことさえある。
 一枚の紙の上に、直線と曲線の組み合わせにより、イメージを表現していくとき、しみじみと生きがいを感ずるのだ。
 設計のできあがり、建物の完成という充実感を味わうとき、帰宅してからの農作業にもいっそう作物への愛着を深める。
 二十三才のとき、突然父をなくして、作業の全部が自分の肩にかかってきた。“これから先、どうすればいいか”と母と二人で考え込んだ。石の上にも三年というから、とりあえず三年は死に物狂いで頑張ろうと約束して暗中模索を続けてきた。その中の一つに、桃作りがあった。農業試験場にたずねて、先ず桃畑の土作りから始めた。排水パイプを入れたり、有機肥料を大量に入れてトラクターで何度も何度も耕した。二月の初めに苗を植え付けながら、大きく育ってくれよと祈るような気持だった。そして春を待った。
 芽が出てくれればよいがと、日曜日ごとに通い、四月の初めにはマッチ棒の先ほどの新芽が出ているのをついに見つけたのだ。
 桃栗三年柿八年といわれるように、これで三年先には収穫できると期待していたにもかかわらず、桃の実は少ししかならなかった。それは、自分の未熟なせん定によるものだった。実のなる枝を切ってしまったのだ。“おまえは、まだ桃の木と話ができてないな”と祖父に言われたときはショックだった。
 今年は、そんな失敗もなく初めて満足に実った桃は味も形も上々で、よくここまで育て上げたな……と喜びをかみしめている。
 一枚の紙に、直線と曲線で対話すること、桃の木と向かい合って、どの枝を切ってほしいかを解ってやること、この創ること、育てることの気持ちは、生きることの最大の喜びであり、これからの糧となるだろう。



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