岡山市民の文芸
随筆 −第12回(昭和55年度)−


ともしび 山下 美津留


 夜のバスに乗った。なんとなく旅情をおぼえて夜のバスは好きだ。自分も、ほかの客も一日の疲れを背負って昼のようには しゃべらない。目を閉じて、頭を窓ガラスにもたれさせてゆられている。そんなとき、ふと 起きて外を見たら、真っ黒の海に、小豆島行きのフェリーボートのあかりが、いくつもいくつも浮かんでいて、一瞬 それが何であるかも、どちらへ動いているのかもわからない、そんな驚きが好きだ。
 それは、すぐには消えてしまわないで、しばらくバスのそばで、七夕さまのように輝いていたけれども、やがて私たちより後ろになってしまった。そのひとつひとつのあかりは無表情で、船の上の人々は今、何を考えているのだろうかと案じられた。おそらく、まんじりともしないで、時の経つのを待つばかりといったところであろうか。
 向こう岸のあかりも、ポツン ポツンと、一直線上に並んでいて、車の中の自分の影や、反対側の座席などと、窓ガラスの上で重なって見える。また 窓にもたれながら、川端康成の、あの「雪国」を思い出していた。
 ――汽車に乗っていた島村が、夕景色を見たいふりをして外に視線をやりながら、窓に映った葉子をながめていた。娘の顔の中に、野山のともし火がともったときには、なんともいえず美しかったと……。
 あの場面はこんなだったんだろうなと、何年も前に読んだ作品を、今 味わったのだ。
 「雪国」のこの外の景色、鏡の底とは大地であって、私の鏡の底は海であった。
 うす暗い車中は無言で、運転席のそばの、両替中≠ニいう青い文字までが、不安定な黒い海の上に漂うのだから、バスなどという文明の利器も、この幽玄さの中にとけ込んでしまいそうだ。
 もしかすると、船の人も同じことを考えていたかも知れない。自分の影の中に、バスが見えかくれするのを後ろから笑ってながめていたのかも知れない。半島の山脈が、いくぶん空の色と見わけがついて、自分の船のあかりの中で、波のうねりが油のようになめらかに暗やみに流れる……。 その中に、窓の数だけあかりが並んでいて、海岸線をコソコソと走っているものがある。止まればだれかが降りたんだろうと僧都する。
 生活の光を放っているのは私たちであった。船の人々は、案外優雅に旅愁を楽しんでいるのかも知れなかった。


 朝 通ったときには、稲の穂が出かかった緑の田んぼのまわりに、あかいひがん花が咲いていた。あちこちに咲いていた。
 それも、みんな消えてしまって、今 遠くのともし火だけが、ささやかな旅情をさそってくれる……。



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