岡山市民の文芸
随筆 −第10回(昭和53年度)−


私の楽しみ 荻野  秀


 私の勤務先までの通勤所要時間は約一時間。そのうち交通機関に揺られている時間は、片道汽車十五分、電車五分の計二十分程である。
 この僅かな車中時間を、せめても仕事に無関係な、自分だけの読書のひとときにあてようと思いたったのは、久方ぶりに山陰の単身赴任先から転勤がかない、朝夕落ちついたわが家からの通勤が可能となった一昨年初めのこと。以来今日に至るまで二年十ヵ月、時間にして約四百九十六時間余になる。しかし実際はこの間休みもあり、出張で出かけることもしばしば。それに朝夕の往復途上で知人でも見かけると、そ知らぬ顔をするわけにもゆかず、せっかく携行した書物の読みかけのページもそのままに、世間話の相手をすることになるので、直接活字に触れた時間は幾分これより割引きしなければなるまい。
 ところで私の場合、読書の対象には初めから肩のこらない、それでいて読み上げるのにかなりの時間を要すると思えるような大作≠目標とした。
 今書棚に並ぶ通勤専用だった書名をあげてみると、「日本の歴史」(別巻を加えて)三十三冊、「中国の歴史」十冊、「翔ぶが如く」七冊、「朝鮮戦争」三冊、「天皇」五冊、「大山巌」四冊、「満州帝国」三冊などがあり、現在なお読み継いでいるものに、「世界の歴史」二十冊、「清張通史」四冊がある。
 私はもともと書籍でも身の回り品でも、購入したらすぐその年月日とその折の感想を片隅へ書きつける妙な癖があるが、特に書籍の場合には、読み初めと読了の日付を必ず付記すると同時に、自分だけの印象とか読後感を一言つけ加えることにしているので、時折書棚の前に立ってぱらぱらページをめくって、それを読んだ日の車中風景を思い起こすのは、私の人知れぬ楽しみとなっている。
 かって単身赴任の独居時代、「一日の読書時間一時間三十分」を、若い人を対象に提唱したことがある。遊んでも寝ていても、ねじり鉢巻で頑張ってみても、一日二十四時間はだれにも公平に与えられている。
 とかく生活の多様化につれて、あれもこれもと手を出しがちだが、せめて一日のうちの僅かの時間を、それも時間がないというのであればそれぞれの流儀で見つけ、少しでも自己充実に心がけるのは、年令を超え、職業地位を超えて必要ではなかろうか。
 さて、私のこの人知れずの楽しみもあと僅か。間もなく通勤のない静寂そのものの人生の朝夕が訪れようとしているが、その時はまた私は私なりに何かを見つけようと思っている。
   


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