岡山市民の文芸
随筆 −第10回(昭和53年度)−


今日も 中田 清吉


 私はタクシー運転手。私は此の仕事が好きだ。私が此の仕事に就いてから、もう十年以上になる。その間、私の車に乗った人を数えると十数万になるのではなかろうか。それこそ千客万来。所も名前も知らぬ、数知れぬ乗客が、それぞれ短い束の間のふれあいを残して車を降りていった。それこそ北は北海道利尻島から来た四人連れの漁師さんも居たし、南は沖縄石垣島から来た娘さんも居る。今の今まで見知らぬ人と、偶然通りかかった私の車に乗った出会いの時から親しく話しをする、私の仕事の素晴らしい楽しみなのである。
 然し、いつも私は前を見て車を運転しており、普通、人が話しをするように顔を見合いながら話しをするというわけにはいかない。だから私には、今お客さんがどんな顔で話しているのか、全然分からないのである。お互い表情を窺う事がないと、遠慮の気持もうすれるのか、誰でもよく話をする。気取る事もいっさい無いから、話しの中に訛や方言もどんどんとびだす。お国言葉は、歯切れの良い標準語には無い懐かしいぬくもりがある。この頃はお国言葉にも大分耳馴れて、お客と暫く話していると、お客が何処の人か、よく当るようになった。
 私はタクシーの運転手と、芝居の黒子は、よく似ていると思う。黒子は舞台にあがる事はあっても、常に主役の影に消される。観客の意識は、すべてひいきの役者に集中されていて、手助けをする黒子の存在は、観客の目に写っていても、それはうつろで、目にとめていないのである。薄い黒衣の中に、血のかよう人間がいるのだが、観客はそこにある道具を見るように気にとめない。それと同じ。タクシーに乗ってお客さん同士で話しをする時、運転手が目と鼻の先にいるというのに、お客さんには不思議なほど全然意識されていない。それが舞台と違って狭い車の中だけに、面白いと思うのである。運転手の背中も道具に見えるのだろうか。誰も道具には気を使う事はない。お客は自由に気兼ね無く話す。私は道具ならぬ一人の人間としてシビアに聞いている。仕事をしながら様々な事を知る事ができる。いわゆる耳学問である。私はお喋べりが大好きである。喋べる事は何物にも増して楽しい。
 然し、私は自分の耳体験から、喋べるのはいいが、言葉は大切にしなければならぬ事を、身にしみて教えられたのである。話す言葉は、それを話す人の人間性を反映する。つくづく言葉は恐いと思う事もある。それなのに、今日も、私一流の、独断と偏見に満ちた冗談を、お客様ならぬ目の前のフロントガラスに吐きつけながら、楽しく車を走らせているのである。



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