岡山市民の文芸
現代詩 −第51回(令和元年度)−


森本 恭子



僕は 左上一番奥が住みかの第三大臼歯だ
ここの主とは 三十年ほど共にしている
毎日 運ばれる食べ物に出会うと
すぐに咀嚼が繰り返される
それは 僕の得意なものや苦手なもの
いろんなものがやって来る
いつか ベーコンが挟まって困っていると
何度も舌先を当てて取ってくれた

「左上奥が小さな初期虫歯です
親知らずだから抜きましょう」
ある夏の日 人生で虫歯とは無縁の彼女が
歯医者さんから 突然 宣告された
早々に 僕がいなくなることが決まった夜
暗闇の中で友との別れを悲しんだ
僕は 周りの仲間たちに支えてもらい
誰も欠けることなく元気に逞しく育ったのだ
二週間後の約束の日 僕の土台に
立て続けに太い針が二本打たれ
彼女の口は 横広がりに大きく開けられた
すると 銀色の道具は容赦なく
洞窟の探検みたいに グイと進入する
僕には太く立派な根が奥深くあるらしい
小刻みに数回揺らされると
鈍く光る鋭利な金属に捕らえられて
スポンと 根元から抜かれてしまった
僕は涙も出ず 虚ろなまま降参した

小さな容器には もはや誰の物でもない
抜け殻のような僕がいた
彼女は 僕が懸命に根を張り生きた姿が
自分の分身を見ているようだと語っていた
でも 僕の使命はこれで終わりだ
僕自身の歯形さえ残せないまま
彼女は僕のあずかり知らぬ所で歩き始める
容器の蓋がカチリと閉じられたとき
小さく サヨウナラ とだけ呟いた
昔から 何度も口ずさんだはずなのに
僕は彼女の名前さえ思い出せなかった


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