岡山市民の文芸
現代詩 −第42回(平成22年度)−


父の一言 岡 由美子


「お父さん こんにちは!」
力一杯大きな声で 来たことを告げる
父は畳に身体を横たえたまま
鼻眼鏡の奥から
大きな目を まっすぐ私に向けるだけ
父のほうから 誰かに話しかけることは
もう久しく ないことである
ただ一つ
「おかあさん」という
母への呼びかけを除いては
名乗ったり
孫の写真を見せたり
食べたいものを尋ねたり
父の大好きな花を届けたり
あの手この手で
父の心を捉えようと 皆必死なのだが・・・


五月の晴れ渡ったある日
ひい孫を見せに 父を訪ねた
縁側で ひなたぼっこする父
その傍らに
そうっと ひい孫を寝させた
生後五ヶ月の男の子は
無心に手足を動かしている
赤ん坊の頭が 縁の端に近づいた時
「落ちるぞ!」
父の大きな叫び声が響いた


母を呼ぶとき以外
久しぶりに発した父の言葉
しかも あんなに力強く
いたいけな乳児を案ずる気持ちの大きさが
父を動かしたのか・・・
四十年もの教師生活の残照なのか・・・
それ以後
父は また一言も発さない
けれど
あの日の父の一言 目の輝きを
私の心に くっきりと焼き付けている
五月晴れの空の色とともに


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