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新たな倭国論「吉備と畿内の連合政権」-造山古墳-

[2024年4月1日]

ID:58476

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今回は、5世紀前半、吉備がヤマト王権と同等の勢力を持ち、ともに倭国を統治していたとする新倭国論「吉備と畿内の連合政権」についてご紹介します。

造山古墳

造山古墳の航空写真

 吉備(現在の岡山)には大きな古墳がある、これは多くの考古学者が持っている印象です。しかし、長さが100mを超える大型古墳の分布を見ると、栃木県など関東も決して少なくありません。むしろ数だけの比較でいえば、吉備が突出しているわけではないのです。 
 では、なぜ吉備に大きな古墳があるという印象が強いのでしょうか。そこには造山古墳の存在があります。さらに言えば、ほぼ同じ時代の5世紀、総社市に全長286mの作山古墳、赤磐市に全長206mの両宮山古墳が築かれていることも理由の一つです。これらは吉備の三大巨墳とされ、日本遺産の構成文化財にもなっています。特に造山古墳は全国第4位の規模を誇ります。
 ちなみに第1位は大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)、第2位は誉田御廟山古墳(応神陵古墳)、第3位は上石津ミサンザイ古墳(履中陵古墳)で、3つとも大阪府に所在し、天皇陵に治定されています。
 このうち最初に築かれたのが上石津ミサンザイ古墳で、造山古墳と同じ時期に築かれたと考えられています。しかも両古墳の大きさは10mほどの差しかなく、ほぼ同じ大きさといってよいでしょう。

吉備と畿内の連合政権

古墳建設の様子

 古い文献によると、吉備出身の豪族が熊本県など日本各地にいたことが記されています。その豪族はヤマト王権が派遣したとされていますが、吉備から直接派遣された人もいたのではないでしょうか。吉備にはヤマト王権と同じ規模の古墳が築かれていること、地方に豪族を派遣していることからも、吉備はヤマト王権とほぼ同じ勢力を持っていたと推測されます。これらのことから、この時代の日本列島はヤマト王権だけではなく、吉備が協力して治めていたと考えられるのです。岡山市では、これを「吉備と畿内の連合政権」とネーミングし、新たな倭国論として提唱しています。岡山はかつて日本の中心の一翼を担っていたと考えるとロマンを感じますね。