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境目七城【宮路山城・冠山城・備中高松城・加茂城・日幡城・庭瀬城(撫川城)・松島城】

[2024年2月1日]

ID:56574

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戦国時代の境目

高松城址資料館

 「境目」とは、戦国時代に大名勢力に挟まれた地域を指します。境目は戦乱に巻き込まれやすく、どちらの大名につくか常に生き残りをかけて選択を迫られていました。昨年のNHK大河ドラマ「どうする家康」でも、今川氏と織田氏に挟まれた松平氏の悲哀が描かれています。 
 岡山も東からの織田氏、西からの毛利氏が対峙し、まさに戦国の境目地域でした。岡山市の東半(備前国)は宇喜多氏が戦国大名に成長し、松平氏と同様、いわば境目の大名としてまとめていましたが、西半の備中国は境目真っただ中。対織田氏のための毛利側の城、境目七城が備中国の南北に並んでいました。水攻めで有名な高松城もその一つです。北区加茂の加茂城もかなりの規模の平城だったといわれています。

境目七城

備中備前マップ

 七城の規模を比べてみると、宮路山城は全長が200mを超えます。また、加藤清正が一番乗りを果たしたという冠山城もほぼ同程度といえます。一方、日幡城は全長が50m
ほど、庭瀬城(撫川城)も100m未満です。 
城郭の大きさは、それぞれを居城とする武士の勢力を示しています。本来、城郭の規模によって武士の間に序列があり、それらをまとめたのが戦国大名です。 
 しかし、毛利氏は序列を無視し、織田氏への防衛線として七城を同列に扱ったのです。そのため、備中国では序列が崩れ、一国としてまとまらず、江戸時代には小藩が分立することになったのかもしれません。