ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

スマートフォン表示用の情報をスキップ

Language

戦国時代、操山は合戦の舞台でした―明禅寺合戦・龍ノ口城跡―

[2023年9月1日]

ID:52414

ソーシャルサイトへのリンクは別ウィンドウで開きます

明禅寺合戦

明禅寺城本丸跡

 先月号に引き続き、今回も操山をめぐるお話が中心です。 
 操山は戦国時代、明禅寺合戦の舞台となりました。明禅寺合戦とは、備中の戦国大名である三村氏と備前の新興武将である宇喜多氏が、操山の明禅寺城をめぐって激突した合戦です。この合戦は宇喜多直家の生涯でも最大の合戦で、約2万もの大軍で攻め入った三村氏を宇喜多氏はわずか5千の兵で破り、勝利したといわれています。この戦いの後、直家は備前国で覇権を確立します。いわば、操山は近世岡山城を築造するきっかけとなった地といえます。
 直家は岡山城の築城とともに城下町の整備を行いました。そして息子の秀家がこれらを引き継ぎ、現在の中心市街地の原形ができあがったのです。

龍ノ口城

明禅寺城山麓

 もう一つ、お城を紹介します。操山の北、龍ノ口山の山頂に築かれた穝所氏の居城「龍ノ口城」です。穝所氏は備前国西半の戦国大名であった松田氏に属し、周辺の小領主を束ねていました。そのため、備前国東半の戦国大名へと成長しつつあった宇喜多直家と衝突します。龍ノ口城は山の急斜面と旭川に囲まれた堅固な守りであったため、合戦では決着しませんでしたが、直家の巧みな計略により落城しました。
 明禅寺城跡、龍ノ口城跡ともに散策が可能です。城跡へ実際に訪れ、戦国時代を体感してみてはいかがでしょうか。なお、操山には、6世紀後半から7世紀の古墳も多数築かれています。ぽっかりと空いた横穴式石室に入ると、古墳時代のロマンに浸ることができるかもしれません。