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吉備には反乱伝承があります ―操山の歴史をめぐる―

[2023年8月1日]

ID:51754

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反乱伝承

 反乱伝承とは、日本最古の書物の一つである『日本書紀』に、天皇へ反乱を企てた事件が記されていることです。
 『日本書紀』は、天皇中心の世の中となった奈良時代(7世紀)に編集されているため、大和王権に匹敵する勢力を持っていたことを、反乱として表現したとも考えられます。ちなみに、吉備には3つもの反乱伝承がありますが、これほど多くの反乱伝承を持つ地域は他に例がなく、吉備が強大な勢力を持っていた証といえます。

金蔵山古墳

金蔵山古墳の石室(見学可能)

 吉備の反乱伝承の主役の一人が上道臣田挟です。上道氏は、現在の岡山市中区から東区にかけてを拠点とし、その中心は中区にありました。金蔵山古墳は古墳時代前期後半(4世紀末)に中区の沢田、操山の頂上付近に築かれた、全長が158メートルもの前方後円墳です。
 同じ時代では、吉備の中で最も大きく、中四国・九州でも最大の古墳です。被葬者である吉備の王は、西日本の中でも飛び抜けた勢力を持っていたと考えられます。操山は当時、北側には平野が、南側には瀬戸内海が広がる、生産と交通の要衝となっており、上道氏の力の源でした。

史跡賞田廃寺跡

史跡賞田廃寺跡の写真

 上道氏は、奈良時代でもなお勢力を失っていませんでした。それを示す遺跡が、史跡賞田廃寺跡です。古墳時代が終わると、各地の豪族は、寺院を建立していきます。
 上道氏は賞田廃寺を建立していますが、建物の基礎となる基壇に、当時としては最上級の凝灰岩を使用しました。畿内でも、限られた豪族の氏寺にしか認められないことから、上道氏が特別な豪族であったことがうかがえます。
 金蔵山古墳、賞田廃寺とも散策ができ、賞田廃寺は史跡整備も行われています。