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木下家定、足守に移る。なぜ?―足守陣屋町・金川城・岡山城― 

[2023年6月1日]

ID:49766

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足守陣屋町

足守藩侍屋敷遺構の写真

 天下分け目の戦い、といえば関ヶ原の戦いです。この戦いによって備前の覇者であった宇喜多氏は没落します。今回は、宇喜多氏と交替で岡山城に入城した小早川秀秋についてのお話です。小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室である北政所の兄の木下家定の実子で、秀吉の養子を経て小早川隆景の養嗣子となりました。関ヶ原の戦いの手柄で、備前・美作50万石を与えられ岡山城主となりましたが、ほぼ同時に実父である木下家定も姫路から足守へ移っています。石高は、姫路と同じ2万5千石です。足守藩は幕末まで存続し、陣屋町は、今も江戸時代の風情を伝えています。

木下家定の転封

金川城本丸跡の写真

 木下家定の足守への転封理由は、秀秋との親子関係と考えられます。それは、岡山城の縄張りが象徴しています。岡山城本丸、旧本丸、西の丸と、西側に向かって曲輪が延びていることです。さらに秀秋は、城の西端に二十日堀を掘り、西側の防備を固めています。西国大名の侵攻を想定していたと考えられます。
では、西から岡山城を攻めるとすると、3ルートが想定されます。南の海路を用いる児島からのルート、現国道180号線と重なる山陽道からのルート、そして山陽道から北に向かい足守を超えて御津金川へ至り旭川を下るルートです。戦国時代の大城郭である御津の金川城は、旭川と陸路との接点を抑える重要拠点であったわけです。
 つまり、木下家定は、実子のガードマンとして足守にやって来たと考えられるのです。