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豊穣の海、今は豊作の地 ー彦崎貝塚・児島湾干拓ー

[2023年4月1日]

ID:48168

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彦崎貝塚

 JR彦崎駅で下車し、南に向かって徒歩約7分。閑静な住宅地の一角に空き地が広がっています。よく見ると、南側の丘陵からのびる台地状の地形であることが分かります。ここが史跡彦崎貝塚です。縄文時代の貝塚です。かつては海に突き出た地形だったのです。
 貝塚といえば、縄文時代のごみ捨て場というイメージを持っている人も多いかもしれません。しかし、現在の彦崎貝塚では、ほとんど貝殻を見ることができません。でもご心配なく、史跡の説明看板に写真がありますが、地面の下にはちゃんと貝層が保存されています。発掘調査では、貝殻の他にシカやイノシシの骨をはじめさまざまな魚類や動物の骨、木の実などが出土しました。また、石器やシカの角で作った釣り針などのさまざまな道具や、ペンダントや腕輪などの装飾品も出土しています。彦崎人は、彩り豊かな生活をしていたことがうかがわれます。これら出土品は、灘崎歴史文化資料館(南区片岡)に展示しています。見学は無料ですので、縄文人の息吹を感じてみませんか。

児島湾開拓のなりたち

 児島と岡山平野に挟まれ、栄養分豊富で数多くの魚貝類を育んだ内海があったから、縄文人は彦崎貝塚に住んだのです。しかし、時代は流れ、人々は豊穣の海よりも、水田を求めるようになりました。目の前の海を堤防で囲み、海水の浸入を締め切ると、広大な水田を手に入れることができました。それを干拓と言います。本格的な干拓は江戸時代にはじまり、昭和38年に完成します。かつての「豊穣の海」は、「豊作の地」となったのです。明治時代の干拓は、岡山県指定重要文化財の常川・片崎・宮川の3樋門が、今に伝えています。

宮川樋門の写真

宮川樋門

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