豪姫 宇喜多秀家正室 備前御方 樹正院
天正2年(1574)生〜寛永11年(1634)没。
前田利家の四女で、母は正室まつ(芳春院)。
利家夫妻と親しかった羽柴秀吉の養女となり、大切に育てられた。16歳のとき、やはり秀吉の養子扱いとなっていた宇喜多秀家と結婚。備前御方、のち南御方と呼ばれ、二男一女をもうけた。
秀吉にかわいがられ、期待されていた秀家・豪姫夫妻であったが、関ヶ原合戦で敗れた秀家は息子とともに八丈島に配流となってしまう。豪姫は娘を連れて実家に身を寄せ、夫と息子を案じつつ金沢で生涯を閉じた。

天下人・秀吉の庇護を受けた前半生
豊臣秀吉自筆書状の写真 豊臣秀吉自筆書状
(高知・百々家蔵)
豊臣秀吉から「五もじ」こと豪姫に宛てた自筆の手紙。「はやばや大めいこく(明国)いづれもゆる(許)し候まま」とあるので第一次朝鮮出兵(文禄の役)の講和のため明使が訪れた文禄2年(1593)のものと考えられる。豪姫が夫宇喜多秀家の帰還について問い合わせたのであろう。秀吉はまもなく戻ってくるから安心せよ、またお目にかかってお話ししよう、と述べている。 
平成11年大阪城天守閣特別展『戦国の女たち−それぞれの人生−』図録より
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離ればなれになった夫と息子を思い続けた後半生
八丈島に配流となった秀家と二人の息子に再び会うことはかなわなかったが、豪姫は生涯、その身を案じ続けた。これに感じ入った加賀三代藩主・前田利常(豪姫の弟)が幕府と交渉した結果、1年おきに八丈島に米などの物資を送ることがゆるされた。以後幕末まで、前田家から八丈島の秀家子孫に対する援助が続けられた。
豪姫墓所は金沢・野田山の前田家墓地で、利家・まつのそばに眠っている。また、金沢の犀川近くにある大蓮寺が豪姫の菩提寺となっている。

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豪姫所用と伝えられる小袖の一部(写真)
伝豪姫所用小袖下小布
紺地松竹梅図小袖裂
(岡山市教育委員会蔵)
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