おかやまの埋もれた歴史再発見
No.2  史跡旧岡山藩藩学
史跡旧岡山藩藩学  岡山が教育県であることは、近世岡山藩の文教政策の成果であり、その象徴が藩政を確立した池田光政の学校施設の設備に示されているといえます。光政は、藩士の子弟の学校である藩学を岡山城の城下町に、庶民の子弟教育の閑谷学校を和気郡内に、それぞれ設立しています。
  寛文9(1669)年に落成した岡山藩藩学は、南北202.5m、東西110.7mの広い敷地に、南門・池・校門・講堂・中室・食堂を南北一列に並べて中軸建物とし、その東脇に1棟の塾と5棟の文学舎、西脇に1棟と5棟の演武場舎を東西対称に設けて、儒教の教えに沿う整然とした堂舎配置を構えていました。堂舎の周りには学校奉行の屋敷をはじめ、吏舎・諸生(学生)部屋など管理や付属の建物が建ち並び、学校施設の林立した景観をなしていました。また、西の外堀沿いには馬場が設けてありました。そして、最盛期には185人が就学しており、明治維新まで存続していました。
  藩学は、明治時代には岡山県師範学校に引き継がれ、明治末年以降は岡山県女子師範学校になり、堂舎や学校施設の多くが新校舎に建て替えられました。伝統を象徴して保存されていた南門・池・校門・講堂と周辺用地が、大正11年に史跡に指定されましたが、その範囲は南北90m、東西28mと往時の11%程でした。 
  この史跡も昭和20年の空襲で建物が焼失してしまい、戦後の戦災復興事業で用地の南側と西側は市道や宅地になり、校門と講堂の土台は埋められて市立旭中学校(現中央中学)の運動場になっています。今日では、池が池田光政の治績である岡山藩藩学を物語る唯一の遺構となってしまいました。

旧岡山藩藩学地図

(岡山市教育委員会元文化財課長 出宮徳向)

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