1. 岡山城(おかやまじょう)

目次へもどる次のページへすすむ
 岡山市丸の内にある。江戸時代には備前岡山藩31万5200石の拠城である。もとは金光宗高が城主であったが、戦国大名へと急速に成長する宇喜多直家によって宗高は謀殺され、天正元年(1573)には直家の本拠の城となった。直家によって岡山城は大改築がおこなわれたと考えられるが、その実態はよくわかっていない。現在目にする城郭は直家の子の秀家以降の手によったものである。特に豊臣秀吉の指示によって本丸を東の岡山(現本丸)に移動し、旭川の流路も現在のように岡山の東を沿って流れるように変更した点は、岡山城の歴史の中では画期的といえよう。また、昭和二十年(1945)六月の岡山大空襲によって焼失した天守閣は秀家が建てたもので、現在の天守閣は昭和四十一年(1966)に再建されたものである。

 岡山城本丸中の段(月見櫓のある郭)は岡山市教育委員会によって史跡整備に伴う発掘調査がおこなわれ、現在の景観にいたるまでの複雑な変遷過程が明らかになっている。この成果は、宇喜多氏→小早川氏→池田氏といった城主の変更と、そのたびにおこなわれた改修・改造の痕跡を解明する大きな手掛かりとなる。

 月見櫓(つきみやぐら) (国指定重要文化財)

写真: 月見櫓(つきみやぐら)
月見櫓

 本丸中の段の北西角に位置する隅櫓である。建築年代は不明であるが、池田忠雄が岡山城主であったときの修復の際に新造され、元和元年(1615)から寛永九年(1632)の時期の間と考えられている。大半が失われた岡山城の建築物の中で、西手櫓とともに、今日まで残った貴重な建物といえる。

 構造は一部地下付きの塗籠造、本瓦葺二階建てで、場外からは二層、城内からは三層にみえる。初層は東西五間、南北四間、二重は方三間である。西面では下重に入母屋破風を持つが、全体としてはより新式の特徴である層塔式となっている。軍事施設とはいえ、内側の東西と南面には手摺り付きの縁がめぐり、日常生活に対応させるつくりとなっている。櫓の名の通り月見などの小宴をもおこなえる構造といえる。

実測図: 月見櫓(つきみやぐら)実測図: 月見櫓(つきみやぐら)
月見櫓

 西丸西手櫓(にしのまるにしてやぐら) (国指定重要文化財)

写真: 西丸西手櫓(にしのまるにしてやぐら)
西丸西手櫓

 旧内山下小学校の敷地一帯が、本丸外周をめぐる二の丸内郭の西側に当たる西丸である。この一郭にも櫓や城門が存在していましたが、明治になって西手櫓と一部の土塀を残して取り壊されてしまい、現在では月見櫓とともにかつての岡山城の様子を伝える貴重な建物といえる。西手櫓は西丸の西端にある隅櫓である。建築年代は不明であるが、小早川時代あるいは慶長八年(1603)から元和元年(1615)までの池田忠雄の時代におこなわれた西丸の改修の際に創建されたとされる。月見櫓と比べると、上下同大の平面を重ねた鈍重な姿であり、古い形態といえる。

 東西三間半、南北五間、重層土蔵造で、南と北に出入り口がある。二階は床間付きの畳敷き広間、東側には雨戸立て窓に腰高明かり障子、南・西・北側には廊下がめぐらされており、日常生活に対応させるつくりとなっている。寛文十二年(1672)に池田光政が西丸を隠居所にした際に改修されたことも推測されている。

実測図: 西丸西手櫓(にしのまるにしてやぐら)
西丸西手櫓

地図: 岡山城(おかやまじょう)
位置

見学 JR「岡山駅」下車、徒歩20分

参考文献 厳津政右衛門『岡山の建築』日本文教出版株式会社 1967年
石井正明・大岡順子・加原耕作・出宮徳尚・乗岡実・三浦正幸『歴史群像名城シリーズ(12)岡山城』株式会社学習研究会 1996年
岡山県教育委員会『岡山県の文化財(一)』 1980年

 目次へもどる次のページへすすむ