20. 旧大雲寺町 [現、中央町・南中央町・表町三丁目・東中央町]

関ヶ原の合戦後に岡山城主となった小早川秀秋は、西大寺町にあった浄土宗大雲寺をこの地に移しました。のち、寺を中心に商家が増え、元禄(1688〜1704)の頃まで鴨方往来が町の南を通り、門前町として栄えたため、この名が付きました。

大雲寺は天正年間(1573〜1591)に西大寺町に建てられ、最初、竜昌山大運寺と称しましたが、のち法沢山大雲寺に改められ、宇喜多時代には寺領300石をおくられていました。

小早川秀秋が城下防衛のため外堀(二十日堀、現在の柳川筋)を築いたとき、防衛の要として多くの寺を堀の西側に移転させました。大雲寺もこのとき、外堀の西南の要地に移されました。

大雲寺は江戸期から近代にかけ、たびたび火災にあいましたが、境内の地蔵はあまり傷を受けませんでした。この地蔵に日を限って願い事をするとかなえられるという信仰がうまれ、「日限(ひぎり)のお地蔵さん」の名で親しまれるようになりました。現在も毎月23日の縁日には植木市や露店がたち並び、にぎわっています。

昭和39年(1964)、44年(1969)、45年(1970)の住居表示事業の実施により、大雲寺町は中央町、南中央町、表町三丁目、東中央町に分割編入されました。なお、大雲寺交差点は国道30号、53号、180号の起点で、市内有数の交通量の多い交差点です。