2. 勘解由橋跡

岡山城下を流れる西川には、元禄16年(1703)、一ノ橋から十三ノ橋までの13の橋が架かっていました。このうち最も北にあり、八番町(番町のうち)と南方村を結んでいたのが一ノ橋で、別名「勘解由橋」と呼ばれていました。長さ三間半(約6.4m)、幅一間(約1.8m)の石橋でした。

寛文3年(1663)、池田輝政の孫・池田内膳が岡山藩主・池田光政に仕えて千石を賜り、番頭に任命されました。元禄2年(1689)には知行四千石、家老に準ずる地位に昇り、御一門として権勢を振いました。この池田内膳の子孫に池田勘解由を名乗る者がおり、その下屋敷が一ノ橋の東詰めにあったため、「勘解由橋」と呼ばれたようです。

昭和29年(1954)、国道53号の拡幅工事により、現在の誇線橋に架け替えられました。