坪田譲治を訪ねて

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  坪田譲治は、明治23年(1890)3月3日、岡山県御野郡石井村島田(現、岡山市北区島田本町)で生まれ、 田園が広がる豊かな自然に囲まれ、少年時代を過ごした。 後に、日本における児童文学の第一人者として活躍し、岡山市の名誉市民になった。
  坪田譲治は、はじめ小説を書いていたが、後に生活のため、童話にも執筆分野を広げたので、一部の作家や評論家から『二足の鞋を履いた』と批判された。譲治は、随筆などで、生活苦のために童話を書き始めたことを書いてはいる。しかし、それとは別問題として批判に対して、
「小説も文学であり童話も文学だ。私は文学を書くのであって、『二足の鞋を履いた』ということにはならない。」
と反論した。

 譲治の小説について

 譲治の作品の特徴は、小説では、大人の世界の様々の出来事に、子供がどう対応するか、子供の心理描写、情景描写をリアルに描き、ストーリーとか物語の筋(説話物語)よりは、描写(描写文学)に重点を置いた作品が多く、子供を良く描いているという定評を受けている。しかし、誤解を招く恐れがあるので一言つけ加えておくと、物語にはストーリーや、筋がなければ成立しない。従って譲治の作品にもストーリーも筋もあるが、描写に力点がおかれているという意味なのである。

 例をあげれば、初期の作品「正太の馬」の主題は、夫や家庭に不満を持つ妻が、家を出ていき、残された後の父子だけの生活をクローズアップして、リアルに描写することで、妻の不満、去っていくまでの経緯は一切書かれていない。前提だけで物語性が乏しいのだが、父子だけの家庭の暗さ、寂しさがリアルに描写され、表現されている。妻でもあり母でもある女性の存在の大きさ、残された父子への大きな打撃を想い浮かべることができる。描写文学と対照的なのは、説話文学でストーリーを主とする物語だ。例をあげれば民話、昔話などが代表的なものだと言えよう。

 「正太の馬」を原点として書かれた、譲治の代表作とも言われている中長編小説「お化けの世界」、「風の中の子供」、「子供の四季」など、会社の紛争に巻き込まれた父親の不幸な影響下の家庭の子供をリアルに描写したもので、ストーリーとか、物語の筋ともなるべき会社の紛争より、子供の描写に力点を置いて描いている。

 「風の中の子供」は、アメリカ、ソ連時代のロシアで翻訳された。アメリカの翻訳者エップ氏が東京の譲治の自宅を訪ねたとき、「アメリカの子供も同じです。」と言ったのが記憶に残っている。

 子どもの読み物の呼称と譲治の童話について

 それでは、童話の方はどうだろうか、譲治の童話の特徴をお話するに際し、子どもの読み物の呼称の史的な変遷、明治時代のお伽噺(おとぎばなし)と言われていたのが、昭和の始めに、童話という呼称に代わり、さらに、児童文学という呼称も童話と共に使用されるようになっていった過程をお話したいと思う。

 明治時代は勿論、それ以前から、物語などは語り継がれてきた。いまではそれを昔話とか、民話といっているが、明治時代の中頃までは、お伽噺と呼称していた。

 近代児童文学の先駆者、巌谷小波の「こがね丸」が、明治24年(1891)に少年文学叢書の第一巻として出版されると、少年文学の呼称もお伽噺とともに使われるようになった。

 しかし、ちょうどその頃、明治21年(1888)以降から、アンデルセンの作品や「グリム」、「小公子」、「真西遊記」などなど文学性豊かな外国の物語が、ぞくぞくと翻訳され普及されると、お伽噺という呼称ではそぐわなくなり、大正期に入ってメルヘン(空想によって作った物語)とか、ファンタジー(空想や幻想)、動植物を擬人化して描いたものなどを内容とした童話という呼称が使用され始め、大正7年(1918)、鈴木三重吉が、童話雑誌「赤い鳥」を創刊することによって、童話という呼称が定着した。

 しかし、大正末期から昭和の初期にかけて、プロレタリア児童文学運動が勃起し、その渦中で現実の子供や、子供の置かれている社会的状況を、リアルに描こうとする散文(字数などに制限のない通常の文章)の子供の読み物が期待されるようになり、児童文学と呼称されるようになった。

 新たに期待されるようになったという児童文学の呼称の意味、領域の内容については、「子どもの本と読書の事典」(岩波書店刊)の児童文学の項(京都女子大学教授岡田純也氏筆)によると次のように解説している。

 児童文学は、児童を読者対象とする文学を指し、幼児から義務教育年齢の児童を読者とするが、成人者も感動させるほどの作品を理想とするという説もあり、その年齢範囲を厳密に限定することは難しい。とりわけ下村湖人の「次郎物語」、夏目漱石の「坊ちゃん」、「我輩ハ猫デアル」などの成人者対象の文芸作品が、児童読書に受け入れられる状態、あるいは、その反対の児童文学、灰谷健次郎の理論社刊「兎の目」が一般成人読者の格好の読み物になった現象を考えると、児童文学の概念及びその対象範囲の流動性が思われてくる。領域としての範囲は、対象年齢とジャンルによって細分化される。
と解説しており、次のようにその領域、及びジャンルをあげている。
 「幼年童話、童話、少年少女小説、ジュニア小説、伝記などのノンフィクション、伝説などの再話、昔話、童謡、少年少女詩、児童劇、口演童話、その他、児童文学の研究、批評なども含まれる。」

 さらに、岩波書店刊の「広辞苑」によると、
「児童文学とは児童のために大人が創作した読み物。少年文学。」
とだけ書かれており特に内容を細かに規定していない。

 児童文学という呼称は、童話と比較すると、年齢的にもジャンルにおいても、大幅にその領域を広げたもので、岡田純也氏は、坪田譲治について、次のように述べている。

  「リアリズム児童文学の完成者ともいうべき坪田譲治は、『この後は、童話は児童文学と改称し、作家も童話作家などと自称せず、児童文学作家というべき。』と、児童文学現状で述べ、近代文学に対する児童文学として、小説的散文の世界を主張していた。」

  さらに、「お伽噺、そして童話と、主として幼年者対象の文学として推移してきた流れの中で、少年少女対象の文学をも含んで語り得る呼称として児童文学が一般化してきたといえよう。」と、岡田氏は解説している。

 坪田譲治文学賞を、一口にいうならば、前述したが、成人文学も、子ども向きの文学も描写に片寄った、あるいは、力点を置いたリアリズム文学であり、お伽噺、童話、児童文学という呼称の変遷の中で、当てはめるのに最も相応しいものといえば、児童文学という呼称であろう。

 坪田譲治は「童話の考え方」という小論を書き、幼い児童に人生体験が無い以上、童話には、読むことによって人生経験が得られるような内容を描くべきだという、独自の見解を主張している。

 坪田理基男氏(坪田譲治ご子息)
平成15年2月 記

 

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