池田家 前史

寛永9年(1632)の池田光政の入封から明治4年(1871)の廃藩置県まで、およそ240年にわたって岡山を治めた池田家は、戦国時代、美濃の小領主だった。それが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人の天下人に仕え、西国に90万石を領有する大大名に成長を遂げる。池田家を躍進させた恒興・輝政・利隆3代の軌跡を追う。

池田家初代 池田恒興(いけだつねおき) 織田家四宿老に列した信長の乳兄弟
天文5年(1536)生〜天正12年(1584)没
父・池田恒利 母・池田政秀娘
別称 勝三郎、入道号勝入
領地 犬山1万貫→伊丹10万石→大垣13万石

天文5年(1536)、池田恒利の長男に生まれる。母が織田信長の乳母であったことから信長に仕える。桶狭間の合戦以降数々の合戦で手柄を立て、元亀元年(1570)尾張犬山城主、天正7年(1579)摂津伊丹城主となる。天正10年(1582)の本能寺の変後の山崎合戦では、羽柴秀吉に加勢して明智光秀を討ち、戦後は秀吉・柴田勝家・丹羽長秀とともに織田四宿老となる。以後、秀吉と行動をともにし、翌年の賎ヶ岳合戦後に美濃大垣城主となる。その翌年の小牧・長久手合戦では先鋒を務め徳川勢と戦うが、長男・元助とともに戦死する。
池田恒興 肖像画
池田恒興(林原美術館蔵)

池田家2代 池田輝政(いけだてるまさ) 姫路城を築いた「西国将軍」
永禄7年(1564)生〜慶長18年(1613)没
父・池田恒興 母・荒尾善次娘 室・中川清秀娘  継室・富子(徳川家康二女・督姫)
別称 三左衛門、照政
叙任 侍従、右少将、参議
領地  大垣13万石→岐阜13万石→吉田15万石余→姫路52万石

永禄7年(1564)、池田恒興の二男に生まれる。天正12年(1584)長久手の合戦で父・兄がともに戦死したため家督を相続、翌年岐阜に移る。秀吉の天下統一後、三河吉田(現・豊橋市)15万2,000石に移封し、羽柴吉田侍従と称せられる。秀吉死後は加藤清正、福島正則、黒田長政ら武断派とともに、石田三成ら吏僚派と対立、関ヶ原合戦では東軍の主力となって奮戦し、戦後播磨一国52万石の大封を得る。姫路に入城した輝政は、秀吉が築いた姫路城を大幅に改築し、今日、白鷺城
と称えられる優美な城郭を築き上げた。妻が徳川家康の娘であったこともあり、晩年は二男・忠継の備前28万石、三男・忠雄の淡路6万石を合せ、86万石もの領地を有し、世に「西国将軍」と称されたという。慶長13年(1613)没、50歳。
池田輝政 肖像画
池田輝政(林原美術館蔵)

池田家3代 池田利隆(いけだとしたか) 実質的な3代目岡山城主
天正12年(1584)生〜元和2年(1616)没
父・池田輝政 母・中川清秀娘
正室・鶴子(徳川秀忠養女、榊原康政娘)
別称 新蔵、宣隆
叙任 武蔵守、侍従
領地 姫路42万石

天正12年(1584)、池田輝政の長男に生まれる。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では父に従軍し、戦後ともに姫路へ移る。慶長8年(1603)に異母弟の忠継が小早川秀秋除封後の備前に封じられると、幼少の忠継に代わって岡山城に入城し、「備前監国」として国政をみたので実質的な3代目岡山城主といえる。岡山藩政の端緒をなすとともに岡山城の増改築も手がけた。西の丸西手櫓(現存、重要文化財)はこのときの城普請である。慶長18年(1613)の父の死後、その遺領を継ぐが、封は42万石に減らされ、その分は弟忠継に与えられた。元和2年(1616)没、33歳。嫡子幸隆(光政)は幼少の故をもって翌年鳥取に転じ、以後輝政が精魂込めて築いた姫路城は、徳川譜代大名によって幕末まで守られた。
池田利隆 肖像画
池田利隆(林原美術館蔵)

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