天文5年(1536)、池田恒利の長男に生まれる。母が織田信長の乳母であったことから信長に仕える。桶狭間の合戦以降数々の合戦で手柄を立て、元亀元年(1570)尾張犬山城主、天正7年(1579)摂津伊丹城主となる。天正10年(1582)の本能寺の変後の山崎合戦では、羽柴秀吉に加勢して明智光秀を討ち、戦後は秀吉・柴田勝家・丹羽長秀とともに織田四宿老となる。以後、秀吉と行動をともにし、翌年の賎ヶ岳合戦後に美濃大垣城主となる。その翌年の小牧・長久手合戦では先鋒を務め徳川勢と戦うが、長男・元助とともに戦死する。 |
|
||
天正12年(1584)、池田輝政の長男に生まれる。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では父に従軍し、戦後ともに姫路へ移る。慶長8年(1603)に異母弟の忠継が小早川秀秋除封後の備前に封じられると、幼少の忠継に代わって岡山城に入城し、「備前監国」として国政をみたので実質的な3代目岡山城主といえる。岡山藩政の端緒をなすとともに岡山城の増改築も手がけた。西の丸西手櫓(現存、重要文化財)はこのときの城普請である。慶長18年(1613)の父の死後、その遺領を継ぐが、封は42万石に減らされ、その分は弟忠継に与えられた。元和2年(1616)没、33歳。嫡子幸隆(光政)は幼少の故をもって翌年鳥取に転じ、以後輝政が精魂込めて築いた姫路城は、徳川譜代大名によって幕末まで守られた。 |
|
||||
|
|||||
|