岡山城400年 3
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小早川・池田氏による拡張整備 (江戸時代)
■小早川秀秋、城を大改造
 関ヶ原合戦後に岡山城主となった小早川秀秋は、わずか1年10ヶ月という短い在城期間であったが、城と城下町の改造を積極的に行っている。最も大規模なものは、中堀(当時外堀)の外に城下町(三之外曲輪)を拡張してその周囲に外堀を新設したことであろう。この堀は領民に加え家臣までも動員した突貫工事で築かれ、わずか20日で完成したため二十日堀と呼ばれた。他にも秀秋は、本丸中段の増築、二之丸への石山門の増設を行っている。
■岡山城完成
 次いで城主となった池田忠継は5歳と幼かったため、兄の利隆が「備前監国」として代わって国政を執った。利隆は今も残る西之丸西手櫓を築いたといわれている。元和元年(1615)、忠継没後に遺領を継いだ弟の忠雄は岡山城整備の総仕上げを実施、まず、扉を開くと直接二の丸に通じていた大手門を、高麗門から一端右に折れて櫓門を通じて二の丸に入るような枡形門に改修した。さらに忠雄は本丸中段を大幅に北側に拡張して廊下門や月見櫓などを建築、本段の御殿に加え新たに表書院も設けている。こののち、岡山城は大規模な増改築は行われることはなく、忠雄時代の城郭が明治まで維持されることとなる。
■後楽園の築庭
 岡山城本体の変化ではないが、備前池田家時代の岡山城に係る大きな動きは後楽園の築庭であろう。日本三名園に数えられるこの庭園は、池田綱政が貞享4年(1687)から14年の歳月をかけて造営した林泉回遊式の大名庭園で、江戸時代は「御後園」「御茶屋」「御菜園場」などと呼ばれていた。旭川を隔てて本丸のちょうど対岸を取り巻くように築かれているため、本丸の防備を強化する曲輪の役割を果たしているという説もある。後園は藩主の好みや使い勝手に応じて幕末に至るまでたびたび改修が加えられ、明治4年(1871)になって一般に公開され、この時名称を「後楽園」と改称、明治17年(1884)に岡山県の所管となった。
小早川秀秋
秀吉の猶子から毛利両川の一・小早川家を継ぐ
写真 秀秋の木像
瑞雲寺蔵
写真 石山門/大納戸櫓
石山門(左)・大納戸櫓
ともに秀秋の修築と伝わる。石山門は戦災で焼失、大納戸櫓は明治期に破却された。
写真:岡山市立中央図書館蔵
 
池田忠雄
徳川家康の外孫だったこともあり厚遇され、幼くして大名となる。
忠雄肖像画
清泰院蔵
写真 月見櫓/廊下門
月見櫓(左)・廊下門
月見櫓は現存だが、廊下門は戦後の再建
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