おかやまの埋もれた歴史再発見
No.12県指定史跡 浄土寺

 竜の口山の南山ろくにあって、創建が奈良時代(8世紀)と伝えられて由緒のある浄土寺は、平家に焼討ちされた奈良東大寺の復興を果たした俊乗坊重源が、備前国での活動の拠点にしたという特別の歴史をもっています。

 東大寺が焼討ちされた治承4(1180)年の翌年に、重源は朝廷から東大寺の再建を命じられて尽力し、建久4(1193)年には備前国が復興の資財の調達地に加えられました。このため重源は備前国の役所である国府(現在の国府市場一帯に所在)に赴いて来て、政務に当たるとともに建築資材の調達を図っています。資材のうちでも中心となる瓦(かわら)の生産を瀬戸町万富で行っていて、瓦を焼いた窯が遺跡となっているほか、生産された「東大寺大佛殿」の文字を入れた瓦や、東大寺の刻印のある瓦が県南の各地で発見されています。

 政策の面では、領内の荘園の開発や再開発を行うとともに、東大寺の荘園の整備を図り、さらに寺院の修復と設置や山陽道の船坂峠の改修に当たるなど、源平の騒乱直後の混乱した世情の下で多くの治績を残しています。また、政務に当たる重源は、国府の北側に近隣する浄土寺を宿所にして、湯治の施設である「大湯屋」をこの場所に設けて、庶民の医療福祉活動をも実践しています。

 境内から「浄土寺」の文字や東大寺の刻印のある瓦が出土していて、重源の宿所としての浄土寺の整備を物語っています。さらに、山門の南外脇(わき)に残っていて、湯口跡と見なされている井戸状の湧(ゆう)泉池からも、東大寺刻印瓦が出土しているので、大湯屋もこの地に建てられていたと考えられます。今は山門前の広場となっている一画の地下に、当時の本格的な医療福祉施設というべき大湯屋の遺構が眠っていることでしょう。

 なお、現在の浄土寺の建物は、江戸時代中期の建築物です。

(岡山市教育委員会元文化財課長 出宮 徳尚)

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