長岡ミニ歴史館

小説『峠』の舞台となったまち

現代に受け継がれる河井継之助の反骨の精神

 長岡の真中を洋々と流れる信濃川は、多くの恵みを与えてくれるとともに、ときには洪水となって牙を剥き、長岡の人を苦しめてきた。
 冬には毎年のように豪雪が人々を襲った。こうした災害の連続が、じっと苦難に耐える辛抱強い長岡人気質をつくり上げた、一つの要因となった。
 幕末維新期に活躍した河井継之助は、そんな気質と苦境に負けない反骨の精神を持っていた。

幕末の風雲児 河井継之助


河井継之助

 河井継之助は文政10年(1827)1月1日、長岡藩の城下に生まれた。子どものころは我慢強く膽がすわり腕白もので、負けず嫌いであったという。継之助は、藩中の名だたる師匠に学問や剣術、弓術、馬術などを習ったが、流儀や形式を嫌い、師たちを困らせた。また、盆踊りが大好きで、盆踊りがあるというと、武士の参加を禁じられていた町中へ手拭で顔を隠し、出かけていった。
 やがて継之助は藩校に学ぶが、それに飽きたらず、26歳で江戸に遊学。斎藤摂堂、古賀茶溪、佐久間象山らに入門して学んだ。安政4年(1857)に家督を相続し、外様吟味役となるが、翌年再度の遊学に出発。安政6年には藩政改革に役立つ経済有用の学問を修めるため、備中松山藩(岡山県高梁市)の山田方谷に学んだ。元治元年(1864)には、御用人となり、その後、外様吟味役、郡奉行、年寄役、家老本職、家老上席と昇進し、藩政改革に尽力していった。

山田方谷 ミニ知識 >>

北越戊辰戦争


ガトリング砲

 情勢が混沌とする幕末にあって、武装中立と、新政府軍、同盟軍の和睦を考えていた河井継之助だが、慶応4年(1868)5月2日、新政府軍軍監・岩村精一郎との小千谷会談が決裂。継之助は徹底抗戦を決意し、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わって、手に入れた最新式のガトリング機関砲や数百丁の小銃、フランス式の兵制で徹底抗戦に臨んだ。官軍に降伏して藩を保ち、政治的理想を遂げることもできたが、河井継之助はためらいなく正義を選んだのである。


小千谷会談の間

 当初、優勢だった同盟軍だったが、新政府軍は直接、長岡城を攻撃する作戦に変更。長岡城攻防戦は熾烈を極め、兵力に勝る新政府軍が、必死に抵抗する長岡藩兵を撃ち破り、ついに5月19日長岡城は落城。両軍の戦闘はその後も続き、7月25日には、長岡藩兵が再び長岡城を奪回した。
 この時、四ツ屋村(四ツ屋町)から、八丁沖を渡って富島村(富島町)に上陸するという作戦がとられた。このルートは、広い沼地なので、新政府軍もここからの侵攻が難しいと考え、予想していなかった。まさに長岡藩の総督・河井継之助の敵の虚をついた、巧みな作戦だった。
 しかし、この戦いで河井は左足を負傷。29日には、再び長岡城は落城した。そして長岡藩兵とその家族は、会津をめざし、八十里越を落ちていった。河井も8月16日、会津領塩沢(福島県只見町)で没した。

河井継之助を描いた司馬遼太郎の『峠』


朝日山古戦場から長岡方向をのぞむ

 河井の名を一躍全国的に有名にしたのは、昭和41年11月から43年5月まで、約一年半にわたって新聞紙上に連載された司馬遼太郎の『峠』である。『峠』は戦国時代や幕末維新の英雄を好んで扱ってきた司馬遼太郎の力作長編であり、彼はこの中で、幕末に生きたこの河井継之助という一人の人間を通して、侍とは何かを考えてみたかった、とあとがきに記している。
 長岡市に隣接する小千谷市にある司馬遼太郎『峠』の碑には「(前略)かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることのみに終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。(後略)」と記されており、司馬遼太郎は河井継之助(長岡藩)を高く評価している
 自由人でありながら、最後まで長岡藩士として生きた河井継之助。もし違う時代に河井継之助が生きていたら、どんな活躍をしてくれただろう。

苦境にへこたれない反骨の精神

 北越戊辰戦争で長岡藩は、兵力・兵器に圧倒的に勝る新政府軍を相手に、堂々と渡り合い、反骨の精神を示したが、戦いに破れ、長岡城下のほとんどは灰になった。しかし、長岡の人々は、苦境に負けなかった。反骨の精神を持って復興に取り組み長岡のまちづくりを進めていった。


長岡城攻防絵図

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