経誼堂と河本家の人々

 

  河本家は、代々備前藩の町方惣年寄筆頭(岡山・大阪・高知・鹿児島等に置かれた町政機関で、町奉行に属する町人側より出た最上位の総町役人)として苗字帯刀を許された豪商で、先祖は宇喜多家の家来だったといわれています。

  初代常平は、関ヶ原合戦で宇喜多勢が破れた後町人となって大阪に留り、建設事業で産を成しました。二代目定平の時岡山へ帰って船着町に居を構え、灰屋を営みます。灰屋はいずれも富豪が多く、天満屋も元は西大寺で灰屋をしていました。「親辛抱 子楽 孫兵衛」といわれますように、兎角三代目ともなればぐうたらが相場ですが、河本家の三代目勝平はなかなかどうして筋金入りの快男子です。藩の御用金係を務めると共に、禁裡(朝廷)御用達となって、京を本拠に遠く蝦夷松前(北海道函館)から西は博多へ支店を設けるなど全国を股にかけた回船問屋として大活躍。一説には海外貿易(密貿易)で大儲けをしたともいわれますが、巨万の冨を築いて備前藩きっての豪商になり、隠居してからは一居と号していました。亡くなってからも遺言で金二万両、米二万俵、金屏風十双を藩主へ贈ったと伝えられていますから豪勢です。

  次の四代目巣居は家業を大切に守り、謹厳実直、優等生を絵にしたような人で、商売人というよりはむしろ文化人でした。しかし、巣居も亦死後米五千俵と銀一万両を贈っています。これは生前商売を繁昌させてもらったお礼と考えれば良いのでしょうか。

  そして五代目侗居(一阿)、六代立軒、七代」軒と学者が続き、八代目も琴州と号し中島来章に学んだ円山派の画人でした。二代目定平は俳諧をよくし、三代目勝平(一居)も有名な国宝「餓鬼草紙」を始めとする数々の書画骨董の名品を収集し、道具長者として名声を高めました。この様に河本家は、豪商として財を成しただけでなく、代々学者、芸術家などの文化人を輩出した全国的にも珍しい家柄でした。

  地理学者として名を知られた文化人四代目巣居は、父一居の妹婿天野道順の子で、一居の養子となって四代目を継ぎましたが、大変な読書家で隠居してからは、回船問屋として全国を廻る間に集めた万巻の書に囲まれながら読書三昧の人生を楽しみました。巣居の号も、本の中に巣龍っているという意味から着けたといわれています。父一居が禁裡御用達をしていた関係で京の公家とも親しく出入りしており、東久世通積卿が選んだ「経誼堂」の額字を一條殿忠良公が巣居への為書をして与えています。巣居の代既に「経誼堂」の存在は広く知られ多くの文人達が訪れていたようです。

  続いて一阿も先代に劣らぬ文化人で、"金は貯めるだけのものではなく、儲けたら世の為、人のために役立たせてこそ商人冥利"と学校の設立を願い出ますが、河本家は藩祖池田光政以来陽明学に傾倒していましたので、今流にいえば反体制派ということでどうしても許可になりませんでした。晩年は備中井山の宝福寺で禅に明け暮れると共に茶事を楽しむ生活を送ります。平井山にある墓碑名は三條実起の筆になり、墓誌は碩学皆川淇園の選書と伝えています。

  しかし、学校設立への願いは捨て切れず、京の一條家を煩わすなど色々手を回して運動した結果、一阿の生存中に念願を果たすことはとうとう出来ませんでしたが、立軒の代になってやっと図書館だけが許されました。船着町にある河本家の屋敷内に、八間四方の講堂と三間半に七間の三階建書庫を建て、蔵書四千五百七十三部、三万二千冊を納め、講堂正面には一條殿忠良公筆の額「経誼堂」が掛けられいよいよ我が国最初の民間人による公開図書館の誕生です。それから半世紀にわたって継続し、岡山の文化向上に計り知れない貢献をしました。

  その「経誼堂」が何時どうして終末を迎えたかはっきりしませんが、老中松平定信が行った寛政の改革で海外貿易の取り締まりが厳しくなった為、商売に陰りが出て身代が傾いたからでは無いかという説や、一方「異学の禁」(思想統一のため朱子学以外の陽明学派、荻生徂来派などを禁じた掟)により陽明学派の河本家が経営する「経誼堂」にも圧力がかかったいわゆる、学問に対する政治的干渉が原因だろうとする説があります。また一説には、謹皇思想の河本家が倒幕資金調達のため千石船二艘に書籍を山積みし大阪へ売りに行った所、丁度参勤交代で通りかかった土佐藩主山内容堂がそれを見て驚き、この様な国の宝が売却され散逸するのは忍びないと、一艘千両で船ごと買って土佐へ回送させたという話が残っています。その後河本家の書籍は東京帝国大学図書館へ寄贈され、関東大地震で焼失したとされています。いずれにしても文化五年の図書改めが最後になっていますから、最初の改め宝暦七年から丁度五十年目に当たります。七代目」軒の時のことです。

  個人経営の図書館が五十年間も維持され、繁盛した例は非常に珍しく、岡山の文化史上特筆すべき快挙といえます。「経誼堂」の名はその内容と共に広く知れわたり、かの有名な趙陶斉を始め細谷半齋、谷文晁、頼山陽、菅茶山など当時一流の文化人で賑わい、また大阪の儒者中井履軒やその他知名の学者を迎えて講演会を開くなど今日の公共図書館顔負けの活動を行っています。

黒ア 義博著『岡山の図書館』(岡山文庫154 日本文教出版株式会社発行)より

>> 作品一覧