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都市計画の歩み

「岡山のまち」

元禄の岡山
元禄の岡山

岡山市は、789.91平方キロメートルという広大な市域を有し、北部の丘陵地帯、旭川・吉井川の河口に広がる岡山平野、児島半島を含む南部の瀬戸内海沿岸地帯から構成され、水と緑に恵まれた自然の豊かな都市です。
岡山市は、その豊かな自然を背景に、古くは、古代吉備文化発祥の地として栄え、戦国時代の岡山城築城に始まり、江戸時代には池田藩の城下町として整備が進みました。 この頃から岡山平野の南部では、児島湾の干拓・新田開発や百間川の築造など、先駆的な都市づくりが行われ、これらの大規模な干拓事業の結果、一大穀倉地帯が形成されました。この田園の豊かさは、現在でも本市の特色となっています。


「近代県都の建設、都市計画の勃興」

明治4年の廃藩置県により岡山県の県庁所在地となった岡山市は、明治22年の市制施行当時、人口4万8千人、面積6平方キロメートルの規模であった。明治8年から岡山城の堀の埋め立てが始まり、次第に城下町の面影が消え去っていった反面、近代都市への基盤が出来上がっていった。そして、明治24年の山陽鉄道(現山陽本線)をはじめとする鉄道網の整備を契機に、岡山駅を核とする都市づくりが始まった。明治45年には路面電車が営業を開始し、中心部の交通体系が整備されていった。
近代都市への脱皮を願う気運にのって、明治40年に独自に市区改正調査委員会を設置し、大正5年には市区改正の計画を取りまとめ公表したが、残念ながら政府により却下された。この時期に都市計画の萌芽が見られ、次の本格的な都市計画へと引き継がれていった。
大正8年に都市計画法が公布され、大正12年には札幌他24都市の一つとして都市計画法が適用される指定都市となった。市では、人口密度、人口増加傾向、産業発展の動向、交通状態などの関係を調査し、都市計画を策定した。そして、将来の都市発展上欠かせない隣接5村と児島湾高島を組み入れた都市計画区域が大正13年12月に内務省から認可された。
昭和2年には28路線、延長58キロメートルに及ぶ壮大な都市計画街路網が内閣から認可された。しかし、市の財政上全面的に実行することは困難であったため、計画街路の中で緊急を要する12路線を実施に移すことにした。それでも予定どおり工事を進めることができず、度重なる実施計画の変更のうえに昭和13年度にやっと終了することができた。
市街地の拡大に対応して都市基盤を整備するため、都市計画街路の認可に合わせ、組合施行による土地区画整理事業が促進された。内田第一地区を皮切りに昭和3年から昭和10年にかけて次々に組合が設立され、新市街地と街路の整備に大きな成果を上げた。
大正12年の都市計画法に続いて、大正15年には市街地建築物法の適用を受けることになった。商業の活性化並びに岡南地区の工業化を通じて商工業都市への発展を図るため、昭和4年に住居地域・商業地域・工業地域からなる用途地域(2,020ヘクタール)が指定され、建築規制を実施して計画的な土地利用が推進されることとなった。
その後、日中戦争を契機に戦時という名の暗雲が全国に拡がり、戦時体制に突入した。防空が都市計画の目的となり、工業振興の名のもとに用途地域指定を拡大し、あるいは岡南工業地区が軍需工業基地と化すなど都市計画は軍事的色彩を強め、また財政・資材の抑制も相俟って都市計画中断の時代を迎える。

「戦災復興期の都市計画」

昭和20年6月29日、米軍機約40機はじゅうたん爆撃を繰り返し、2時間足らずの短時間に7.6平方キロの旧市内の73%が灰燼に帰した。全国被災都市147都市の中で8位にランクされる被害であったといわれている。
終戦間もない昭和20年12月に閣議で「戦災地復興計画基本方針」が決定され、岡山市もこれに基づいて素早く復興事業に着手した。復興は元どおりの復旧を目的とするものではなく、将来の長期的見通しのもと都市機能、保健、防災などの確立を主眼に生活の向上と都市美観の形成を図り、交通・産業・文化都市を建設することを目標とした。
岡山市復興都市計画により罹災面積の90%にあたる678ヘクタールを復興土地区画整理事業の施行区域として昭和21年に決定した。そして、昭和23年から着手したが、当時の財政事情から徐々に区域の縮小を余儀なくされ、最終的には350.6ヘクタールについて昭和45年から56年にかけて完了した。都市計画街路、区画街路、公園、宅地などあらゆる都市基盤施設が整備され、その上に現在の都心が成り立ち、都市活動を力強く支えている。
戦前の都市計画街路を前提としつつも将来の自動車交通及び建築規模に適応させること目的に抜本的に見直し、昭和21年に岡山特別都市計画街路を決定した。街路は交通・保安・衛生上の観点から瓦町線(県道岡山倉敷線)及び駅前城下線(桃太郎大通り)が70メートル、西川線(西川筋)が50メートルとし、また大元駅付近に新岡山駅を設置して街路を放射状に集中させるなど市街地全域にわたって大胆な計画が立てられていた。しかし、財政上の問題から都市計画道路網を再検討した結果、早くも昭和23年には幅員等について大きな変更の手が加わった。この21年及び23年時点で、現在の都市計画道路網の原型が出来上がったと言える。
昭和27年の第6次隣接村編入をもって市域拡張の波は一区切りとなった。市制施行当時と比較して、面積は27倍、人口は約5倍の22万6千人と飛躍的に増加した。このような都市化に対応して、用途地域では住居地域や商業地域を中心に拡大し、また新たに準工業地域を加え、昭和31年時点では3,023ヘクタールに及んでいる。
その他の都市施設に関しても、戦災復興都市計画を契機として新たな展開が始まった。戦前は悪疫対策上上水道の敷設に力を注いだため、下水道の整備まで手が回らなかったが、戦後復興区画整理事業の施行に合わせ昭和25年に事業着手し、昭和38年旭西終末処理場が稼働した。また、岡山練兵場跡地は岡山県が払い下げを受け、昭和26年に岡山県総合グランドの建設に着手した。

「高度経済成長期の都市計画」

桃太郎大通り
桃太郎大通り

昭和35年の所得倍増計画、昭和37年の全国総合開発計画を契機に、日本経済は高度経済成長期に突入し、都市へ人口・産業が集中し、急激なモータリゼーションが進展した。その結果、市街地の無秩序な外延化、市街地の居住環境の悪化、公害の発生など多くの都市問題が顕在化した時期である。特に土地利用に関する都市計画制度が不十分だったため、計画なきところ土地利用は野放しという状況であった。
昭和37年開催の岡山国体を目途に、岡山駅前周辺の復興区画整理事業、駅前広場、国体道路など数々の都市整備が重点的に実施された。また、岡山会館ビルも落成し、戦後復興の遅れた岡山駅玄関口の汚名返上ができたのである。
昭和37年に岡山県知事が企図した岡山市と倉敷市等を合併する100万人都市構想は実現しなかったが、その後新産業都市の指定が加わり地域発展の方向として広域都市建設の必要が叫ばれた。そして、昭和44年の西大寺市との合併を皮切りに市域拡大の時期を迎え、その後9町村を編入し昭和50年の藤田村との合併を最後に現在の513平方キロにも及ぶ広大な市域が形成された。昭和50年には人口50万人に達した。
昭和41年には、人口・産業の集中に伴う市街地の拡大に対処するため、用途地域の指定替えを行い、用途地域の指定を従来の区域の2倍に当たる6,102ヘクタールに拡大し、広範囲に土地利用の規制に乗り出した。
合わせて、市街地の拡大とモータリゼーションを背景とする自動車交通量の増大と広域化に対応して都市計画街路網を全面的に再検討して、昭和40年にバイパス道路、中心部と周辺部を結ぶ街路、周辺部間を結ぶ街路などを大幅に追加するなど再配置した。昭和42年には近郊住宅地として発展していた吉備、妹尾地区に新規に都市計画街路を決定した。そして、昭和41年から国道2号線のバイパス事業に着手し、その後昭和49年に君津以西が供用を開始した。
復興土地区画整理事業に引き続き、新市街地の造成と都市基盤施設の整備を図るため、昭和38年には中心市街地の西部に隣接する地域を対象として、健全な市街地の形成と副都心づくりを目標に西部土地区画整理事業に着手した。その後、区域を増加し236ヘクタールを施行した。そして、隣接して当時組合施行では全国でも有数の規模といわれた今土地区画整理事業(224ヘクタール)が昭和45年から実施に移された。


「岡山県南広域都市圏の都市計画」

昭和30年代から急激に始まった都市化に伴う都市環境問題に対応するため、昭和43年に都市計画法、昭和45年に建築基準法が全面的に改正された。改正趣旨は土地利用の抑制と計画的な利用の促進を目的とするものであり、区域区分の創設、開発許可制の導入、用途地域制の細分強化などが図られることとなった。
昭和47年に山陽新幹線の開業によりひかり都市として一躍脚光を浴びる。その後、昭和63年瀬戸大橋開通、昭和63年新岡山空港開港そして山陽自動車道の開通などにより高速交通時代を迎え、広域交通網の結節点という優位性を背景に中四国地方のクロスポイントとして一層の中枢拠点性の強化が期待された。
新都市計画法に基づき、昭和45年には岡山県南広域都市計画区域という新しい都市計画の枠組みが設定された。これは、岡山市及び倉敷市を含む関連性の強い県南4市20町村の範囲を一体の都市として広域的かつ総合的な都市計画を実践しようとするものである。
そして、昭和46年には無秩序な市街化の抑制と効率的な都市基盤整備を目的に市街化区域及び市街化調整区域の区域区分(いわゆる線引き)が決定され、その後3回の見直しを経て、現在市域面積の20%にあたる9,741ヘクタールが市街化区域に指定されている。また、昭和48年には良好な市街地環境の形成を目的に8種類の用途地域を市街化区域全域へ定め、その後平成3年に都心部の総合的見直し、平成8年に住居系土地利用の細分強化などの全体見直しを経て、現在10種類の用途地域を定めている。
昭和46年には全国で4番目に当たるパーソントリップ調査を実施し、総合交通体系の確立に向けて交通計画を策定した。この中で、都心部へ集中する通過交通を排除するとともに郊外部を計画的に開発するため、従来の放射状道路に加え内、中、外で構成される岡山環状道路構想が打ち出された。その後、外環状線は一部ルートが変更されたものの岡南線や福田一宮線として都市計画決定され、順次整備が進められている。
昭和50年代には、新市街地の造成を目的に組合施行の土地区画整理事業が多く立ち上がり、そして平成に入ってからはJR宇野線の連続立体交差事業を契機にその関連地域で市施行の土地区画整理事業が実施され、また西部地区の新拠点の形成を目指して西部第4地区、第5地区に着手した。現在では、市街化区域の約20%弱が土地区画整理事業によって面的に整備され、同時に幹線道路、公園などの多くが区画整理事業によって生み出されている。

駅周辺
駅周辺

山陽新幹線の開業を契機として岡山の顔づくりと都市機能の更新を図るため、昭和45年に岡山駅前地区を対象に市街地再開発基本計画が策定され、昭和53年には商業施設をキーテナントとする岡山駅前第一市街地開発事業(ドレミの街)が中四国地方初の組合施行で完成した。その後も表町一丁目地区(岡山シンフォニーホール)、駅元町地区などで施行し、中心市街地活性化の一端を担っている。
市民のより良い住環境への欲求や住民参加の意向の高まりを反映して、市民主体のまちづくり手法として地区計画制度の導入を推進し、平成4年に大多羅松崎地区で区画整理事業に合わせてはじめての地区計画を定めた。その後、主に郊外の住宅地で地区計画を定めており、今後の一層の活用が期待されている。


「新世紀の都市計画」

日本の人口は2005年に約12,800万人でピークを迎え、以降長期の減少過程に入っている。そして、人口・産業が集中し都市が拡大する都市化社会から、都市化が落ち着き産業・文化等の活動が都市を共有の場として展開する都市型社会への構造転換が生じている。これまでの前世紀は、新市街地の整備、基幹的な社会資本の整備、効率的な都市整備など急激な都市化への対応に追われていたが、今日では既成市街地の再生、地球環境負荷の軽減、市民協働のまちづくりが求められている。
岡山市は、山・川・田園など恵まれた自然環境と人口約70万人という高い都市集積を活かして、「水と緑が魅せる心豊かな庭園都市」という都市理念のもと、真の豊かさが感じられ市民が世界に誇りうる中枢拠点都市の形成を目指している。
このため、駅元町地区再開発など都市機能の更新、東西自由連絡通路、西口広場整備など岡山駅の再整備、都心居住人口の回復、操車場跡地公園を中核施設とする西部新拠点の形成、そして地区レベルで市民主体のコミュニティ型まちづくりを進めている。

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