江戸東京岡山を歩く 先人の息吹
江戸東京 岡山を歩く先人の息吹>宇喜多秀家・豪姫の像(八丈島)
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宇喜多秀家 肖像       400年ぶりの“再会”

宇喜多秀家・豪姫の像(八丈島)
写真 秀家・豪姫像
宇喜多秀家・豪姫の像
背後の山は「八丈富士」と称される標高854mの西山
南原千畳敷から望む太平洋
手前の岩礁は八丈富士の噴火で流出した溶岩
写真 太平洋
関が原で暗転 豪姫は前田利家の四女に生まれ、実子のいない羽柴秀吉の養女となり大変可愛がられて育ちました。秀吉は常々豪姫には「三国一の婿を」と口にしていましたが、その婿に選ばれたのが備前宰相・宇喜多秀家でした。天正17年(1589)、秀家17歳、豪姫15歳で結婚、二人は仲睦まじく、2男1女を儲けますが、関が原合戦を境に二人の運命は一変します。
 合戦に敗れた秀家は、薩摩へ逃れる途中大坂の備前屋敷に寄り、豪姫と数日間過ごしたのち、船で薩摩へ向かいますが、これが二人の今生の別れとなりました。その後、秀家と二人の息子が八丈島流罪と決まったとき、豪姫は同行して苦労を共にすることを望みますが受け入れられず、実家・金沢の前田家で寂しい生活を送り、寛永11年(1634)、61歳で亡くなりました。夫・秀家が八丈島で亡くなるのはその21年後のことです。

400年後の再会 八丈島の西岸に、千畳敷と呼ばれる、八丈富士の噴火で流出した溶岩により形成された岩場の海岸があります。太平洋を望む風光明媚なこの地に、平成9年(1997)12月、宇喜多秀家と豪姫の像が、ひな人形のように台座の上に仲良く並んで建てられました。これは、平成9年が、秀家が築いた岡山城の築城400年という節目の年であるため、それを記念して作られたものです。関が原合戦後に大坂で別れてからおよそ400年、秀家が辛酸を舐めたこの地で、二人はようやく“再会”を果たしたのです。

宇喜多秀家・豪姫について
 ・ 宇喜多秀家 - 歴代岡山城主
 ・ 豪姫 - 歴代岡山城主の中で紹介
金沢城 写真
金沢城 加賀前田家100万石の居城。豪姫はここで寂しい30年間を過ごした。
八丈島の秀家  前田家の援助
 八丈島での流人生活は、誰も面倒を見てくれるわけではなく大変苦しいもので、秀家とその一行は自ら農耕や漁撈に励まないとその日の食料にも事欠く有様でした。島の代官に招待された秀家が、食膳の握り飯をひとつだけ食べ、ふたつは持ち帰って子に与えたという話が伝わっています。
 窮状を知った豪姫の実家・金沢前田家では、慶長19年(1614)から、一年おきに白米70俵、金子35両、ほか衣類や雑貨、医薬品を八丈島の秀家に送ることを幕府に願い出、許可されました。この仕送りは、豪姫や秀家が亡くなった後も、明治になって宇喜多一族が赦免されるまで変わることなく続けられました。
宇喜多秀家・豪姫の像
東京都八丈町大賀郷 南原海岸
交通
八丈島空港から車で10分

宇喜多秀家・豪姫の像 地図
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