
★ 宇喜多秀家の墓
★ 宇喜多秀家・豪姫の像 |
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▲宇喜多秀家の墓
左側の小さな石塔が当初の墓石 |
岡山城天守閣礎石
宇喜多一族墓地を囲む石垣の上に設置された。 |
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流刑生活50年 豊臣五大老にして岡山57万4千石の太守・宇喜多秀家は、関が原合戦に敗れたのち、一時伊吹山中に逃れ、その後薩摩の島津家久のもとに潜伏します。しかし幕府の追及が厳しくなると出頭し、前田家・島津家の取り成しもあって死罪を免れ、一旦駿河久能山に幽閉ののち、八丈島への流罪と決定、慶長11年(1606)8月、秀家とその息子秀高・秀継、そして家臣10名の主従13名は八丈島へ送られました。
東京の南方 287キロメートルの海上に浮かぶ火山島・八丈島。今でこそ飛行機を使えば45分ほどのところですが、当時は「鳥もかよわぬ」と言われたまさに絶海の孤島でした。秀家はこの地で実に49年もの流刑生活を送り、明暦元年(1655)11月20日、83歳で亡くなります。時代は4代将軍家綱の御世になっていました。八丈島は江戸時代を通じて流刑地となり、多くの罪人が送り込まれましたが、秀家一行が実はその第一号でした。
徳川の世をはばかって 秀家の墓は、彼が流刑生活を送った八丈島の大賀郷にあり、今では東京都の文化財にも指定され、島の観光名所となっています。宇喜多一族の墓は低い石垣に囲まれていて、その中心にひときわ大きな五輪塔―秀家の墓が立っています。その横に小さな卒塔婆の形をした石塔がひっそりとたたずんでいますが、これが埋葬当初の秀家の墓石です。表面には「南無阿弥陀仏」と刻まれていましたが、判読ができないほど風化しています。57万石の太守も、流人となっては幕府をはばかって小さな墓しか立てられなかったのです。
その後、天保12年(1841)に子孫の手により墓は作り直され、表面に秀家の院号「尊光院殿秀月久福大居士」が刻まれた現在の五輪塔になりました。墓地を囲む石垣上には、秀家が精魂込めて築いた岡山城天守閣の礎石の一部が運ばれて設置されています。
・ 宇喜多秀家 - 歴代岡山城主
・ 岡山城 - 岡山城の歴史の中で秀家を紹介
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▲宗福寺 大賀郷にある秀家の菩提寺 |
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秀家、広島の酒を所望 |
秀家と同じく豊臣秀吉子飼いの将で、関が原合戦の功により安芸広島49万石の領主となった福島正則は、江戸にいる間、船で広島の酒を江戸へ運ばせて楽しんでいました。ある年、運搬船が嵐で八丈島へ漂着したとき、ひとりの老人が、「旗印からすると福島殿の船とお見受けする。広島の酒を一樽所望したい」と申し出たそうです。
また、寛永20年(1643)、備前牛窓の廻船問屋の船が同じく八丈島に漂着した時、備前の話を非常に興味深げに聞く老翁に出会った話が伝わっています。このふたつのエピソードに登場する老人、ともに流人姿の宇喜多秀家ではないかと言われています。 |
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宇喜多秀家の墓 |
東京都八丈町大賀郷 東里
(稲葉墓地内) |
■交通 |
八丈島空港から車で5分、徒歩で20分
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