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同和問題の起源と歴史

同和問題の解決にむけて | 今後における同和問題解決の基本方針 |

部落はどのようにして生まれたのでしょう?

同和問題の起源と歴史イメージ画像

 わたしたちは歴史の授業で「士農工商」の身分制度について学びました。しかし、すこし意味あいが違うようです。同和問題について理解を深めるために、部落がどのようにして生まれたか、それぞれの時代で部落とそこに住む人々がどのように位置づけられていたかを考えてみましょう。


部落の起源-古代から中世へ-

 男も女も、みんなが力を合わせて木の実や、草の根、動物や魚介類を採って暮らしていた原始時代では、身分というものはなかったのではないかと言われています。ところが、今から約2,200年から2,300年ほど前、稲の栽培技術が伝わると、採集から生産の時代となり、獲れた米の配分や土地の所有をめぐって争いが起こるようになりました。争いは次第に個人の争いから集団の争いへと発展し、支配する者と支配される者の関係が生まれました。
 このような歴史を背景に7世紀の中頃、「大化改新」が行われ、その後律令国家が形成されると、身分が良民(りょうみん)と賤民(せんみん)に分けられ、良民が賤民を支配する関係がつくられました。ところが、10世紀頃になると、荘園制度が発達し、天皇や貴族、寺社などの護衛にあたっていた武士(侍)という新しい身分が台頭し、それまでの身分制度は次第に崩れていきました。


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 その後、中世になると天災や飢饉(ききん)、戦(いくさ)に敗れるなどの理由で生活に困り、散所(さんじょ)や河原に住むようになった者の中から、雑役や雑芸・彫刻・細工、神聖な場所とされる寺社の清掃や死牛馬の処理、行刑、葬送など不浄なものを解消する「清め(キヨメ)」の仕事をする者が現れました。これら社会的な事情で賤民となった人々は、当時の宗教的な考え方の影響から、畏怖の念とともに「穢(けが)れ」た存在として見られていました。
 このような人々の中には、銀閣寺の庭園を造ったと言われる善阿弥(ぜあみ)や仏像彫刻で有名な運慶(うんけい)など、日本の優れた文化をつくり出した人が多くいます。また、この時代は、住まいや仕事は自分の意思で変えることができたので、才能があれば誰でも特技を活かして生きていくことができました。つまり、中世の賤民身分は非常に流動的であったのです。


戦国の動乱期から武士が支配する社会の形成

 15世紀から16世紀にかけては、身分や階級という壁を武力や経済力で打ち破って権力を手に入れる激しい変動期、いわゆる「戦国時代」を迎えます。100年もの間、戦乱にあけ暮れた戦国時代は、まさに下剋上の時代で、戦国大名の中には賤民身分から身を興した者もおり、身分の秩序は一層流動的となりました。そうした中で、水飲み百姓であったといわれる豊臣秀吉が天下を統一したのです。


 秀吉や家康はもちろん、戦国大名の多くは土豪や地侍、民衆の出身でした。民衆の力を恐れた秀吉は自分の地位の安泰を図るために、まず「検地」を行い、一筆(一枚の田)ごとに土地の広さを調べて、そこから獲れる米の石高(こくだか)やその土地の耕作者を決めて年貢を納める義務を課しました。つづいて、民衆の力を分裂させるために、農民の武装を解除し、さらに有力な地侍の一部を城下町に集めて家臣に引き上げ、残りを百姓身分としました。そして、武士が百姓や町人になったり、逆に百姓や町人が武士になることを禁止して、身分・職業・住む場所を固定化しました。秀吉が行った「刀狩り」はそれを示すもので、いわゆる「兵農分離」を行ったのです。


身分制度の仕組み

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 江戸時代に入り、徳川幕府は武士の支配をいつまでもつづけるため、秀吉の時代の身分制度を引きついで、武士、百姓(農民等)、町人(職人・商人等)などに身分を分けて固定し、その生活を細かく管理しました。そして、武士は「城下町の武家地に住む者」、百姓は「村・在方(ざいかた《農漁村の意味》)に住む者」、そして町人は「町方(まちかた《城下町の町人屋敷地》)に住む者」として身分によって住む場所を分けました。 武士は、百姓・町人よりもきわだって高い身分とされましたが、その武士の中でも細かく身分が分けられ、同様に、百姓、町人身分の中でもやはり身分が細かく分けられていました。そして社会全体を武士が支配し管理するという仕組みがつくられていきました。
 

 これらの身分とは別に「えた」や「ひにん」という身分があり、多くは農業をいとなみ、中には死牛馬の処理や皮革・細工物などを製造する者、役人の下で警備や犯罪者の逮捕、処刑などの役を課された者、また、芸能などに携わる者もいました。百姓や町人はこれらの人々が製造する生活必需品を購入し、芸能を鑑賞するなど日常生活に無くてはならない存在として、経済的、文化的な交流はもっていましたが、「穢れ」意識から、日常生活では自分たちの共同体の中からこれらの人々を排除していました。
 注意しなければならないのは、「えた」や「ひにん」身分の人が最初から百姓や町人よりも下の身分であったのでは決してないことです。百姓や町人とは別枠の身分として存在していたものが、武士が支配する社会体制の中で、徐々に差別が厳しくなっていったのです。


部落は意図的・政治的に利用された-巧妙な分断政策-

 江戸時代も前期は新田開発で成長の時代でしたが、中期以降は停滞期にさしかかり、武士社会を支える年貢米も当然増えなくなりました。それに加えて商品経済の発達によって百姓の年貢米で支えられていた武士社会は経済的に行きづまりはじめました。百姓と同じ在方に住む「えた身分」の人々に対する差別が厳しくなるのはこのころからです。
 停滞期に入り、武士による百姓への締めつけは一層厳しくなり、百姓の不平不満はますます強くなります。そのため、幕府や藩は、当時民衆がもっていた「穢れ」意識を巧妙に利用して「えた身分」を差別する法令を出しました。そして、「えた身分」よりも上の身分であるという意識を植えつけることで百姓の不平不満を反らそうとしました。つまり、武士の支配体制を守るため、少数の「えた身分」の人たちが圧倒的多数の百姓から差別されるよう政治的・意図的に仕組み、それを巧妙に利用したのです。


近代から現代へ-差別はなおもつづいた-

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 1871年(明治4年)、明治維新政府は、太政官(だじょうかん)布告でいわゆる「解放令」を出しました。これにより賎民身分は、法律・制度のうえではなくなりました。
 しかし、それは単に蔑称を廃止し、身分と職業が平民なみにあつかわれることを宣言したにとどまるものでした。安定した職業・収入を保障する具体的な施策は何ひとつなく、社会的に低位にあった同和地区の人びとは、零細企業、日雇、行商、雑役など厳しい労働条件のもとで働かざるを得なかったのです。
 明治以降の社会においても、同和地区の人びとに対する厳しい差別と貧困は変わりませんでした。
 また、解放令の翌年、1872年(明治5年)わが国で最初の近代的な戸籍といわれる「壬申(じんしん)戸籍」がつくられました。この戸籍には、旧身分や職業、壇那寺、犯罪歴や病歴などのほか、家柄を示す族称欄が設けられていました。戸籍法では、従前戸籍の公開が原則とされていたので、この「壬申戸籍」は1968年(昭和43年)包装封印されるまで、他人の戸籍簿を閲覧したり、戸籍謄(抄)本をとったりすることができたのです。
 終戦後、民主主義が導入され、明治期につくられた華族制度はなくなりましたが、部落差別を解消するための施策はありませんでした。また、差別意識をなくすための教育や啓発活動もなかったので、差別は根強く残りつづけました。戦後社会の中で、被差別部落はとり残されました。その中で、契機となるふたつの大きな事件が起こりました。

オールロマンス事件
1951年京都市の市の職員が雑誌「オールロマンス」に、同和地区の人々をきわめて差別的に描写した小説「特殊部落」を寄稿しました。
この事件をきっかけに、地方公共団体は、同和行政の取組を推進させていきました。

部落地名総鑑事件
「地名総鑑」は、全国の被差別部落の所在地、戸数などを記した出版物のことです。この「地名総鑑」は、同和地区出身者に対する就職差別の道具としてひそかに企業などの人事担当者等に使われていました。
1975年(昭和50年)、その存在が明るみに出ました。それ以降、反対運動や法務局の指導の結果、本として販売されたという報告は最近では聞かれなくなりました。 

 1969年(昭和44年)に「同和対策事業特別措置法」が制定されて以来、さまざまな取り組みの結果、同和地区内外の較差は概ね解消されました。しかし、近年のインターネット上の差別書き込みに見られるように、心理的な差別はなお解消されたわけではありません。


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