3. 旧 難波町 [現、富田町二丁目・蕃山町・弓之町]

岡山城の北西の外堀の西にあった町で、南北の通り筋の東側が侍町、西側が町人町でした。

難波(なにわ)町の町名の起こりは、延宝期(1673〜81)に多い文学的なものとも考えられます。謡曲「難波」はおめでたい曲で、紀州の熊野三山と関係があります。隣町の名・滝本も謡曲「檀風(だんぷう)」に出てくる言葉で(滝壺の意)、熊野権現の加護を得る話です。当時の藩主・池田綱政は無類の能好きで知られています。

寺は広大な敷地の大恩寺のほか、浄土宗光明寺、日蓮宗妙応寺があり、妙応寺は現在もほぼ旧位置に建っています。

嘉永7年(1854)の戸数は73戸、人口181人(男97人・女84人)とされています。

昭和39年(1964)の住居表示事業の実施により、富田町二丁目、蕃山町、弓之町に分割編入されました。現在は、江戸時代の町域のほぼ中央を柳川筋が通っており、商業地域となっています。