坪田譲治を訪ねて

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 譲治の生いたち

明治23年(1890)3月3日に石井村島田(現、岡山市北区島田本町)で生まれた。父は平太郎といい、ランプ芯を作る島田製織所を経営していたが、譲治、8歳のとき病気で亡くなった。幼いときに父を亡くし、母に育てられた譲治にとって、母への想いは大きく、中年もすぎたころから、

心の遠きところ 花静なる 田園あり

と、色紙などにしばしば書いていたが、ある受験雑誌に、その言葉について次のように説明している。

「これは私の心の中にある、遠い昔の故郷の風景を描いたものなのです。そこは言葉のとおり、今から四十年前(譲治が10才のときとすれば2003年の今から103年前になる)花が静かに咲いている田園だったのです。私はそれを大切に、心の奥深くにしまい込み、ときどきそれを思い出しては、自粛自戒しております。なぜでしょうか、その静かな田園のどこかに、母の姿が見えるからです。いや、母という感じがするからです。
母なる大地という言葉がありますが、それは母なる故郷です。もとより母は現存してはいません。それでも私の心の中に残り、私を自粛させるとは、蓋(けだ)し母というものは、大きな力といえるものです。」

譲治にとっては、故郷は母であり、母は故郷であり、重なっていたのです。
『きつねとぶどう』も『ねずみのかくれんぼ』も、母の愛を描いたもので、その他にも母の愛、母への想いを描いた作品が多いが、私の記憶では、『父の記憶』、『エヘンの橋』など恐い父、威張った父を随筆で描いたものが、2、3編あるにすぎない。

 小学生のころ

石井小学校(現在地)に入学。

高等小学1年生(今の小学5年)の時から、「赤穂義士銘々伝」をフリガナをたよりに読み始めたのが最初で、読書好きな少年であった。

 中学生のころ

金川中学校(現、金川高等学校)に入学。毎日、金川まで汽車通学をする。
「少年世界」や「文章世界」を愛読し、友達と文学について語り合うことが多くなった。

 早稲田大学生のころ

早稲田大学予科に入学。初めて小川未明を訪ねる。
明治43年、同大学英文科に進級したが、11月に志願兵として入隊のため一時退学。

大正4年(1915)25歳で早稲田大学を卒業。

大正5年(1916)26歳で前田ナミ子と結婚。12月長男「正男」誕生。

 島田織所に就職 大正8年(1919)29歳

岡山に帰り、兄の経営する実家の島田製織所に就職。一方、亀尾英四郎らと同人誌「地上の子」を創刊。

翌年、大正9年(1920)30歳、島田製織所大阪支店に移る。8月次男「善男」誕生。『正太の馬』を「地上の子」に発表。

 文学に専念しようと東京へ 大正12年(1923)33歳

三男「理基男」誕生

 最初の童話を書く 大正15年(昭和元年 1926)36歳

坪田譲治の最初の童話『正太の汽車』を、婦人の友社発行の「子供の友」(1月)に発表。次いで同社発行の「婦人の友」(4月)に『蛙』を発表。その他、『正太樹をめぐる』、『枝にかかった金輪』を「新小説」に発表。『正太の馬』を春陽堂から刊行。

昭和2年(1927)37歳
鈴木三重吉主宰「赤い鳥」に、童話『河童の話』を発表。以後、「赤い鳥」に多数の童話を書いた。

 再び島田織所(岡山)へ 昭和4年(1929)39歳

家族を東京に残し、単身で岡山に帰郷、島田製織所に勤務。
昭和5年(1930)兄醇一と、母幸が相次いで亡くなる。

 意を決して上京し文学に専念

 昭和8年(1933)年) 43歳

7月、株主総会にて島田製織所取締役を落とされ、文学に専念するため即日上京。以後3年にわたって、生活のため苦闘がはじまる。11月『シナ手品』、12月『鯉』を「赤い鳥」に発表。

 昭和9年(1934)年) 44歳

毎月「赤い鳥」に作品を発表したほか、6月には『善太の四季』を「文学界」に、8月には『日まわり』を「文芸首都」に、12月には『けしの花』を「文芸往来」に発表するなど、多くの短編を執筆したが、生活苦しく、親戚、友人に借金をする。

 昭和10年(1935)45歳

『お化けの世界』を「改造」に発表し、やっと世間に認められてきた。
『魔法』、『狐狩り』を「赤い鳥」に発表。

 昭和11年(1936)46歳

『風の中の子供』を「東京朝日新聞」に連載し、幾百万の読者から好評を得た。

 昭和13年(1938)48歳

『子供の四季』を「都新聞」に連載する。善太、三平を主人公にした代表作である。

 昭和18年(1943)53歳

昔話集『鶴の恩返し』を発表。海軍報道班員として東南アジアに行き、翌年3月帰国。

 昭和20年(1945)55歳

信州野尻湖畔へ疎開。8月、太平洋戦争終わる。

 晩年のころ

 昭和30年(1955)65歳

日本芸術院賞を受賞。
翌年 日本児童文学者協会会長

 昭和36年(1961)71歳

自宅に「びわのみ文庫」を開設。

 昭和38年(1963)73歳

童話雑誌「びわの実学校」を創刊し新人養成に力を尽くす。

 昭和39年(1964)74歳

日本芸術院会員に推される。

 昭和49年(1974)84歳

朝日賞(文化賞)・野間児童文芸賞を受賞

 昭和54年(1979)89歳

岡山市名誉市民の称号を授与。

 昭和57年(1982)92歳

7月7日永眠。

 昭和59年(1984)

岡山市立中央図書館前庭に坪田譲治文学碑を建立。(蛭田二郎制作)

 坪田理基男氏(坪田譲治ご子息)
平成15年2月 記

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