旧遷喬小学校 もどる

遷喬小学校の前身

1870年(明治3年)町内の有志が発起人となって、大旦高下(現在の久世町大字台金屋)に明親館という塾を創りました。命名は、備中の聖人山田方谷で、自ら「明親館」の額を書いたと伝えられています。

創立

本校ハ明治7年8月2日ノ創立ニシテ当時栄町ニ在リシ封建ノ遺物郷倉ヲ利用シテ校舎ニ遷喬小学校ト称シタリ。(学校沿革誌)

校名の由来

「出自幽谷 遷千喬木」ユウコクヨリイデテ キョウボクニウツル(ノボル) この中から2文字を採って「遷喬」としました。これは中国の古典・詩経の一節です。ウグイスが深山の暗い谷間から飛び立ち、高い木に移ることに例えて、学問に励み、立身出世をすることと解釈されています。

校舎建築の概要

1904年(明治37年)に川南村(現在の大字惣、大字冨尾)と合併、この頃から児童数が増え、校舎改築の必要性が生じました。1905年(明治38年)現在の位置に新築着手となり、1907年(明治40年)7月20日、落成式を迎えました。
建物は総坪数370坪(1221平方メートル)、工事総額は、当時の金額で17,984円56銭とあります。明治39年度の久世町一般会計予算額のうち、経常経費の決算総額が6,131円68銭であったのに比べ、その当時の町費の約3倍の巨費を投じて校舎を新築したことになります。

久世町資料より

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