第5代城主 池田光政(いけだみつまさ) 岡山藩政を確立した名君

慶長14年(1609)生〜天和2年(1682)没
城主期間 寛永9年(1632)〜寛文12年(1672)
父・池田利隆
母・鶴子(徳川秀忠養女、榊原康政娘)
正室・勝子(本多忠刻娘) 
別称 幸隆、新太郎
叙位叙任 従四位下、左近少将
法名 通源院殿天質義晃大居士
墓所  岡山県和気郡吉永町和意谷
池田家墓所

■姫路→鳥取→岡山
幼少の岡山藩主・池田忠継に代わり岡山城で執政にあたっていた池田利隆の嫡男として、同城に生まれる。元和2年(1616)、姫路藩主となっていた利隆の死に伴い遺領42万石を継ぐが、幼少のため翌年因幡国・伯耆国32万石の鳥取藩主に転封となる。鳥取在城時は鳥取城と城下町の大改修を手がけたが、寛永9年(1632)、従弟・池田光仲との国替えで、24歳の青年藩主として誕生の地・岡山城に入城、31万5,200石を知行することになる。

■岡山藩政を確立
光政は儒教を信奉し、藩政に「仁政」を実践すべく、藩主親政の領国治世に邁進した。儒教を藩是とし、熊沢蕃山をはじめ、多くの儒学者を岡山に招いている。その治績は、家臣に領主権を分与する地方知行制(じかたちぎょうせい)から米・貨幣を与える俸禄制への転換といった行政機構・領内支配体制の抜本的改革、大規模な新田開発と農村整備・治水対策といった社会資本整備から、藩士の子弟のための藩学校のほかに領民の教育施設である閑谷学校(しずたにがっこう)を整備するなどの教育施策にまで及び、まさに岡山藩政の基礎を確立したといえる。なお、光政の治世を支えた英才藩士として、津田永忠が知られている。

■隠 居
寛文12年(1672)、藩主の座を嫡男・綱政に譲り、岡山城西之丸に隠居。このとき新田分のうち2万5,000石を二男・政言
(まさこと)に、1万5,000石を三男・輝録(てるとし)に分知し、それぞれ鴨方藩、生坂藩を支藩として設置した。隠居して10年後の天和2年(1682)、74歳で没する。水戸藩主・徳川光圀や会津藩主・保科正之と並び称される、近世初期屈指の名君であった。

池田光政 肖像画
池田光政(林原美術館蔵)

池田光政 和歌
池田光政和歌(個人蔵) [拡 大]

前のページへ 歴代岡山城主トップへ 次のページへ