オリエント美術の流れ


江上波夫 (東京大学名誉教授/岡山市立オリエント美術館顧問)

写真1:山羊流水文坏、イラン、テペ・シアルク、B.C. 3,500頃、岡山市立オリエント美術館所蔵

オリエント−狭い意味では西アジア−は文明の発祥地として、人類の歴史に特別重要な位置を占めており、世界の美術もその初期の発展において、オリエントに負っているところがきわめて大きい。オリエントの歴史は5期に時代区分されるが、その美術の流れも同様に5期に分って観察することができる。

第1期には、人類の歴史に画期的な事件となった穀類の栽培、有蹄類の飼養が発明されて、百万年以上もつづいた狩猟採集の放浪生活から人間が解放され、安定的な経済、持続性ある社会、蓄積可能な文化の実現に向い、それが文明の母胎・揺籃となったが、同時に美術的創造の基盤ともなった時期である。すなわち前5000年から前4000年の間に、オリエントでは人々が村落をつくって定住生活を営んだが、そのいわゆる初期農村が各地に拡がり、住むための家が土塊や日乾煉瓦で造られ、これが建築の出発点となり、農耕や牧畜の豊穣を土地神や家畜の神に祈願する宗教もおこり、地母神や動物形の土偶、彩文土器など造形美術的な作品もつくられはじめた。さらに前2500年ころには灌漑農耕が起って、人口が急激に増加し、大河の流域には町邑が発達した。

第2期には、まずティグリス、ユーフラテス両河の流域のいわゆるメソポタミアに、シュメール人の都市国家が成立し、王や神官、軍人などを中心とした支配階級と、平民や奴隷の被支配階級が明確に分離された状態にあって、後者の労働によって莫大な富財が前者の掌中に集ることになって、壮大な神殿、宮殿、王墓などが造営され、神像や礼拝者像などの彫刻、捧献用の器物などが盛んに制作され、金銀、珠玉、貝殻などを材料とした武器、装身具、調度品、楽器、遊戯具などの工芸品に驚嘆すべきものがあって、当時の社会・文化の王侯貴族的、宗教的、権威主義的性格がうかがわれる。

写真2:女神土偶、シリア北部、B.C. 2000頃、岡山市立オリエント美術館所蔵

ついでシリア砂漠の遊牧民系のアモール人が一方ではメソポタミアに進出して、アッカド・バビロンなどの全メソポタミアを覆った領土国家を開き、他方ではシリアの内陸にマリ・エブラなど、また沿海地域に多くのカナアン人の都市国家を建設した。

当時メソポタミアではハンムラビ王のもとにシュメール文明を基盤として発展したバビロンの古典文化が興り、その国で行われた楔形文字、法律、商習慣、文学などが外国に拡められて、西アジアの諸民族を文化的に統一する役割をもった。

一方カナアン人はその住地が地中海を前面にし、エジプトに連り、メソポタミアヘの回廊をなすという地理的好条件を利用して、陸海の交易に活躍し、美術としては金銀の容器や象牙細工など輸出用品にすばらしい技巧を示した。

他方そのころイラン・アナトリアの高原地帯にいわゆる「山の民族」なる牧民系戦士民族が勃興しつつあって、そのなかにはインド・ヨーロッパ語族を主体としたものもあり、いずれも山間の牧地で牛馬羊の牧畜に従うとともに、軍馬や戦車を駆って掠奪、征服を行った。その社会は王を中心とした貴族戦士階級が優位を占め、堅固な城塞や記念碑的な磨崖の浮彫など石を材質とした建築や美術を始めたところに特色があり、概して粗野であるが雄渾で、一種のユーモアのある場合もあった。

第3期は、アッシリア帝国という一種の世界帝国の成立に始まり、アケメネス朝ペルシアという真の意味の世界帝国の滅亡で終った時代である。

アッシリア人は長く「山の民族」の圧迫に悩んだが、王の専制的中央集権と、鉄製兵器で武装された強力な軍隊で帝国主義的な侵略を行い、パレスティナからエジプト、メソポタミア南部からエラムまで支配におさめて、最初の世界帝国を建設し、壮大な首都を北メソポタミアの四ケ所に造営した。その城門や宮殿の入口には豪壮な怪獣・巨人の彫像が立てられ、室内の壁面には王の功業を記念した戦闘、狩猟、饗宴などの浮彫が画廊のように飾られ、そこにしばしば写実的な手法で騎馬の人物や瀕死のライオンなどが迫真的に表現されていた。これは古代オリエントの美術に新生面を開いたものと言うことができるが、画題には残酷な場面が何の遠慮もなく取扱われており、そこにアッシリア人の民族的特性の一端が示されている。

これに対し極端に対照的なのがアケメネス朝ペルシアで、東はインダス流域から西は工一ゲ海、北はトルキスタンから南はエジプトに及ぶ空前の大帝国を建設し、諸族共和の政治理念のもとに世界国家の名に真に値する国家を初めてオリエントに実現した。その帝国を象徴するダリュウス王らのペルセポリス宮殿には、アッシリアはもちろん、シリア、エジプトからギリシアに至るまで各方面の文化的要素が巧みに総合されていて、圧倒的に豪華で装飾性に富みながらも、そこに少しの破綻もなく繁縟もない、すっきりとしたすばらしい建築美が示されている。またその浮彫などの主題がペルシア帝王の使臣引見や、各国の朝貢使節の行列や、衛兵・官僚の立ち姿など平和的な場面に限られていて、アッシリアの宮殿で愛好された血なまぐさい場面などが全く見られない点も注目に値しよう。

このような国際性に富み、平和主義的な傾向を主調にした古代ペルシアの美術は、東はインド方面、西はギリシア方面にまで少なからず影響を及ぼした。しかしこのようなペルシア帝国も、マケドニアのアレクサンドロス大王によって滅ぼされ、オリエントの文化全体が、美術をも含めて大変化を生じることになった。

第4期は、ペルシア帝国以上に広大な領土を拓き、地中海世界とオリエント世界を史上はじめて一連のものとして、そこに東西の民族・文明を融合し、真に世界的な大帝国を実現しようとしたアレクサンドロス大王が、その大計画に着手したばかりで早世し、その部将セレウコスらが大王の遺志を嗣いで、各地に建設したギリシア人都市を中心にヘレニズム文化が発展し普及していった時代で、前世紀の中ごろイラン高原ではギリシアの覊絆を脱したパルティア王国が興り、ギリシア人の支配はアフガニスタン高地からインダス流域に及ぶバクトリア王国と、シリアを中心としたセレウコス王国(シリア王国)に二分されたが、パルティアといえどもヘレニズム文化の強い影響から脱することはできなかった。そこでもギリシア文字が用いられ、ギリシア風の貨幣が鋳られ、ギリシアの神々がイラン・メソポタミアの神々と並んで祀られた。パルティアは軍事的にはローマと対立し、経済的には「絹の道」を通じる貿易の中継地として、東はトルキスタンから中国へ、西はシリアからローマヘの貿易の利を独占した。したがって、その建築・美術にもイラン的な伝統のほか、ヘレニズム的要素やトルキスタン・メソポタミア的要素を含み、円形の要塞都市やイワン式宮殿建築に特色を出しており、イラン・メソポタミアの土着系やギリシア・ローマの外来系などのさまざまな神や、王侯貴人たちの彫像に重要な趣を示すものが多い。そうしてこのようなパルティアの建築・美術は、次のササン朝ペルシアに伝えられて高度に美術的なものになったのである。

ササン朝ペルシアもローマと覇を争い、またイランの伝統的文化の復興をはかったが、その文化には当時の各方面の文化が自由に取り入れられていて、決して国際性を拒否したものではなかった。美術の方面でも、古代ペルシア・パルティア系統のものとギリシア・ローマ系統のものが渾然と融和され、そこに華麗にして典雅なササン朝美術を生み出し、とくにその銀器・絹織物・ガラス器・漆喰装飾・磨崖浮彫などに、当時の代表的な意匠、様式がみられる。このようなササン朝美術は当時の東ローマ帝国すなわちビザンティンのそれと本質的に同類のもので、このいわばササンビザンティン美術が、一方では中国を経て日本に伝来し、一方では西ヨーロッパまで流布することになった。

このように東ローマ帝国とササン朝ペルシアが政治的軍事的に対立しながらも、その文化の基盤を本質的に共通にし、互にその文化を交流していたときに、第3の勢力として現れたのが、アジアを席巻する勢を示したイスラム教徒であった。

第5期は、マホメットのイスラム教開基とそれによるアラブ民族の統一と驚異的な征服活動が、オリエントの社会・文化を根本から変革した時で、第2代カリフのアル・マンスールがバグダードに築いた円形都城「平安の都」は、当時唐の長安と並ぶ世界的な大都市であり、国際貿易の最大市場で、東西文化交流の最も重要な中心地でもあった。

ここを本拠としたイスラム世界では、学問が奨励され、独特なイスラム建築が発達し、アラベスク文様の華麗な漆喰装飾や彩釉煉瓦装飾が黄金のドームやミナレットとともに、イスラム都市を非常に明るい芸術品として印象づけたが、美術の分野では人物像の制作のタブーがあって、絵画・彫刻が衰え工芸だけが際立った存在となり、特に卓抜な文様と華麗な色彩で世界的に有名になったイスラム陶器、精緻なアラベスク文様を誇る金銀器、けんらんたるダマスク織、細密画や書蹟にも独特な美が創られたが、曾てオリエントが誇った典雅にして雄渾な美の世界が消え去ったことは否定すべくもない事実であった。

このように観てくるとオリエントの世界ほど様々なジャンルで独自の創造性を発揮し、高度の技術を達成し、人間の可能性を徹底的に示顕した美術を生んだところは、他にないように思われる。(東京大学名誉教授)

(出典:「岡山市立オリエント美術館蔵品図録」より)


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