古代オリエントにおける東西文化の交流


故 深井晋司(元東京大学教授/元岡山市立オリエント美術館顧問)

写真1:円形切子ガラス碗、イラン、A.D. 6世紀、岡山市立オリエント美術館所蔵

古代オリエントが人類文明の発祥地であったことは今更言うまでもない。所謂「豊穣な三日月地帯」を中心に原始農村が興り、次第に都市へと発展してここに都市国家が成立し、遂に人類の高度の文明が形成されるにいたったのである。

また、紀元前後を中心にこのオリエントの地域は東西両洋の文化交流の場として、人類の歴史上重要な役割を占めることとなる。特にパルティアからササン王朝時代にかけてのイラン高原は地理的にもローマ帝国と中国との中間に位置し、東西両文化が交流、融合するなど、東西交易の媒介者として重要な役割を果たすこととなった。

かの張騫の遠征を機に「絹の道」が開かれたのもこのパルティア期(安息)の頃である。後漢書西域傳安息国の條には、和帝の永平9年(A.D.97年)に西域都督の班超が甘英を大秦(ローマ帝国)へ遣わしたが、途中パルティア人に邪魔されてついにその目的を果すことが出来なかったとの記事がみられる。また、同書の西域伝大秦国の條には、安息国は中国と大秦との媒介者として、絹貿易で巨萬の富を得、後漢の桓帝の延喜9年(A.D.166年)にはじめて大秦国安敦(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウス)が中国に使者を遣わすことが出来たとの記述が残されている。

相次ぐササン王朝時代には、この「絹の道」を通じて六朝、隋唐時代の中国と頻繁な交流をもち始めた。中国ではペルシア人のことは「胡」又は「胡人」と呼び、その胡人達は中国の当時の都の洛陽や長安の居留地に、また港の泉州や楊州にも多数住みつき、ペルシアの習慣や服装、宗教などを保持していた。特に彼等の信奉していたゾロアスター教はけん(※)教の名で知られ、長安には数々のけん(※)祠が建立された。当時、彼等の胡風一ペルシア・スタイルが中国人社会に喜んで受け入れられたことは唐詩選のよく伝える処である。

※ 「けん」=「示」+「天」

唐代の貴族社会では、まず食事から胡食を珍重し、貴婦人は胡服(左衽の服装) を尊び、胡粧を施し、胡戯に耽り、高昌楽、亀茲楽、康国楽などの胡楽を楽しんだのであった。胡楽に使用された琵琶や箜篌(ハープ)などがいずれもペルシアから伝来され、さらに中国化しつつ、我が国に将来されて現在正倉院宝物中に実在することは既に周知の事実である。

写真2:モザイク(豹)、シリア北部、A.D. 5世紀頃、岡山市立オリエント美術館所蔵

飲食器にしても、ペルシア製の品々が「絹の道」を通過して中国の唐朝で大流行していた事が、例えばかの晋の潘尼の詠んだ「瑠璃碗賦」にガラス碗がはるばるパミールの峻嶮を越え、中央アジアの流沙をわたり、中国本土にもたらされたことが詠まれており、事実正倉院宝物のうちには「白瑠璃碗」の名で呼んでいるササン王朝ペルシアのカット・グラスが収蔵されており、また江戸時代に安閑天王御陵から出土したと伝えられる同種の作品が現在東京国立博物館に所蔵されているのである。その何ずれも昭和34年頃イラン高原北部のギラーン州のデーラマン地方のパルティア、ササン王朝時代の古墓から出土したと伝えられるペルシアの円形切子装飾瑠璃碗と瓜二つであり、したがって当時、はるばるイラン高原から「絹の道」を通じて中国へ、さらに海を越えて日本に将来されたことが実証された。また、昭和29年玄海灘の洋上に浮ぶ沖ノ島の古墳時代後期(A.D. 6 〜 7C)の遺跡から浮出し円形切子装飾を有する瑠璃碗断片が出土した。幸いにもこの種のガラス器が昭和35年頃ギラーン州からも出土するに至って、この断片もイラン高原から将来されたものであることが立証された。続いて昭和39年には、二重円形切子装飾瑠璃碗の断片が京都上賀茂から出土、また同種の作品がギラーン州から出土するなど、日本の古墳時代には、既にササン王朝時代の代表的カット・グラスが「絹の道」を通じて我が国に将来されたことがうかがえるのである。

工芸の部門ではこの他に、唐朝では胡瓶と呼ばれる把手付水瓶など、また鳳首水瓶や八曲長坏など、明らかにイランから伝来されたと判断されるペルシア製品やペルシアの影響で製作されたと推定される工芸品の数々が今日中国本土で出土しており、また唐朝のこのペルシア・モードはさらに我が国にも影響を与え、法隆寺の白銅竜首水瓶や帝王獅子狩文錦として、また天平時代の正倉院には漆胡瓶、金銅八曲長坏、緑瑠璃十二曲長坏など数々の作品を遺したのであった。

繰り返すが、ササン王朝ペルシアの文化・芸術の影響は東西両洋の果てまで浸透していったことが言えよう。即ち、アフガニスタンでは仏教美術と結びついて、バーミヤンの壁画やフォンドキスタンにおける塑像などの美術作品を生み、次いで中央アジアの洞窟壁画に、中国に入っては六朝時代から唐代にかけて仏像彫刻の図像や諸工芸品に多大の影響を及ぼし、引いては我が国の飛鳥時代の法隆寺、天平時代の正倉院宝物の数々に直接間接に多大の影響を及ぼしたのであった。西方との関係は、主としてビザンチン世界に影響を及ぼしたのであり、ラヴェンナのサン・ヴィターレのモザイクを始め諸々の建築・工芸作品の証明する処である。ともあれオリエント7000年の歴史の変遷を通じて、このササン王朝時代のペルシア文化・芸術ほど東西両洋の文化に多大の影響関係をもたらした時代は他に全く見られない。(元東京大学教授)

(出典:「岡山市立オリエント美術館蔵品図録」より)


もどる