おかやまの埋もれた歴史再発見
No.15史跡岡山城跡(月見櫓)

 豊臣秀吉の天下で宇喜多秀家の築いた岡山城を本格的に増改築して、江戸時代の雄藩たる岡山藩の城府に完成させたのが、第四代城主の池田忠雄でした。忠雄の城普請は、本丸では中の段を搦(からめ)手側の北西方向へ拡張して、隅櫓(すみやぐら)や城門を増設し、防御力の強化を図るとともに、城主(藩主)の公邸の表書院を建築して、藩政を行う施設の整備をも行っています。二の丸では単純な門構えであった大手門を、二重に城門を設ける桝(ます)形式の堅固な構造に改造しています。

 現存する岡山城の建物は月見櫓と西丸西手櫓だけであり、月見櫓は忠雄の城普請のもので、1620年代に建てられたと判断されています。この隅櫓は一部地下付きの塗籠(ぬりかご)造り本瓦葺(がわらぶ)き2階建ての建物で、城外側から見ると2層の望楼(ろう)型の外観ですが、城内側が3層の層塔型の様相になり、城の内外では異なったたたずまいとなっています。

 城郭防御の隅櫓として、城外側には戦闘装置を設けていますが、2階の城内側の東面と西面は、雨戸立てで開け広げた造作であり、日常の生活仕様となっています。表書院での政務の一環として、月見をはじめとした四季の眺望と小宴を日常的に催すのにも格好の和戦両用の施設整備といえます。

 忠雄の城普請は、豊臣家を滅亡させた江戸幕府が諸大名の統制を強化して、軍備の象徴である居城の増改築を厳しく規制していた時期に当たります。広島藩主の福島正則は、広島城を無断改築したために小大名に格下げさせられています。忠雄が幕府の許可を得ていたかどうかは、史料が残っていませんが、徳川家康の外孫の立場で、居城の改築に鋭意取り組んだことを、月見櫓は物語っています。

 岡山城の近代改装と、藩政の機構の整備を果たした少壮の藩主の忠雄でしたが、家臣の刃傷(にんじょう)事件から旗本たちと対立し、不本意のうちに31歳の若さで病没しました。遺命により、講談などで有名な荒木又右衛門の伊賀越えのあだ討ちが、2年後に果たされました。

(岡山市教育委員会元文化財課長 出宮徳尚)

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