おかやまの埋もれた歴史再発見
No.14史跡岡山城跡(旧本丸跡)

 岡山市の歴史的シンボルである岡山城跡は、豊臣秀吉に寵(ちょう)遇されていた宇喜多秀家が、16世紀末に新たに築城したことに始まりますが、その前身が戦国乱世の備前国を統一した宇喜多直家の居城の石山城でした。

 石山城は旧内山下小学校から東に延びた小山の石山にあり、城跡が岡山城の主要な郭に再利用されています。本丸が東端(榊原病院駐車場)にあったと伝えられていて、この場所も旧本丸跡として史跡の一画に含まれています。

 直家の嫡子の秀家も石山城を居城にして、秀吉の全国統一の戦いに従っていましたが、57万4千石の大大名としては手狭で時代遅れの城構であったため、統一の後に時代の先端を行く城造りに当たりました。築城に際して地元の宇喜多家側では、石山城を本丸として城域の拡大を図るつもりでいました。

 しかし、秀吉の指示により、石山の東隣の岡山を本丸にして西から南に偏って、城域の広がる城郭配置を採用せざるを得なく、今日に残る岡山城の配置となったと、江戸時代の史書は伝えています。また、本丸の東手の防御が弱いため、はるか東を流れていた旭川を、本丸沿いの今のような流路に付け替えて、背後の外堀にしたとも伝えています。

 秀家の築城が地元の観点から行われていたならば、石山を本丸として、東の岡山に二の丸、北西の天神山に三の丸を配し、南側を中心としながらも、全方向に城域を展開させた城郭配置になったと思われます。旭川の城下への引き込みも必要なく、今日とは異なった都市景観となっていたことでしょう。

 秀家の城府の整備に際して、秀吉が西にシフトした城構えをなぜ強要したかは知るすべもありませんが、中国地方の雄たる毛利氏の脅威に対する思惑があったのかも知れません。秀吉の大坂城を拠点とした全国支配の枠組みの中で、身内並に処遇した秀家に西の脅威への備えを求めた結果が、岡山城の特異な城構えとなったのではないでしょうか。

(岡山市教育委員会元文化財課長 出宮徳尚)

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