おかやまの埋もれた歴史再発見
No.13史跡牟佐大塚古墳

 このシリーズですでに触れましたが、古代吉備国の有力豪族であった吉備上道氏の本拠地は、旭川下流東岸の高島・竜操学区の地域とされています。この地域から北に、竜の口山を隔てた山間の牟佐地区に、吉備地方の三大巨石墳の一つの牟佐大塚古墳が、単独状態で築造されています。

 牟佐大塚古墳は、復元すると墳丘が直径40m、高さ10mを上回る大型の円墳で、墳丘の中心部分に全長18m、最大幅2.8m、最大高3.2mを計る横穴式石室が南向きに設けられていて、石室の規模の巨大さから、巨石墳と呼ばれています。出土物が不明ですが、六世紀末の築造と推定され、石室の奥には遺骸を納める家形石棺が安置してあり、この石棺は、備中南西部(井原市)産出の石材(浪形石)で作られています。横穴式石室は、今日の代々墓のように何人もの遺骸を葬る家族墓的な埋葬施設です。

 他の三大巨石墳のこうもり塚古墳と箭田大塚古墳をはじめ、吉備地方各地の巨石墳は、有力豪族の墓所として本拠地の周辺で築造されています。しかし、この古墳は、古代山陽道の牟佐の渡の要衝の地にあるとはいえ、上道氏の本拠地からは隔たった地に築かれていて、特異な背景があると考えられます。

 牟佐大塚古墳の背後の高倉山は、国見岳として国中の米作りの見極めを行う祭政の地でした。この山を祭る高蔵神社は、神社の形態と祭礼行事に、古代の様相を伝えています。神社の鳥居の石製扁額(市指定重要文化財)には、正慶元(1332)年の製作年と、「大願主神主上道定成」の銘文があり、後の時代まで上道氏がこの山の祭事に深くかかわり合っていたことを物語っています。各地の古代豪族が、大和中央政権の下で地方の統治者に組み込まれていった時代に、上道氏は本拠地での墓所の築造とは別に、伝統的な地元の首長として、国見岳のふもとに吉備製の石棺を使った墓所を営んだのではないでしょうか。

(岡山市教育委員会元文化財課長 出宮徳尚)

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