おかやまの埋もれた歴史再発見
No.7  史跡 造山古墳
 岡山市内にある史跡の内で、全国トップクラスの歴史的内容を物語るものとして、造山古墳を挙げることができます。

 造山古墳は、築造時期が5世紀前半に推定されている巨大な前方後円墳であり、古墳時代(3世紀末〜7世紀初め)に全国で築造されている前方後円墳5,200基の内で、第4位の規模を占めています。

 前方後円墳は、「倭国(わこく)」と呼ばれていた古墳時代の日本列島において、大和(現在の奈良県)を中核にした政治体制の下で、社会的ステイタスに基づいて築造された首長の墓と評価されています。

 造山古墳は、全長350m、高さ31m、平面積約7.8haの巨大な墳丘規模を形作っているばかりでなく、約9.6haの広大な墓域の中に築造されていることが、地割から復元できます。全国の多くの前方後円墳に見られるような、水を湛(たた)える周濠(ごう)は無かったと判断されますが、吉備地方でのそれまでのものとは規模と形態を異にしています。全国第4位の規模は、この古墳の築造時には最大規模であったと考えられます。第1位の大山古墳(伝仁徳天皇陵=全長486m)と第2位の誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵=全長425m)とは、造山古墳より後の時期であり、第3位の石津ヶ丘古墳(伝履中天皇陵=全長365m)が同時期でほぼ同規模ですので、従来の全国最大規模の渋谷向山古墳(伝景行天皇陵=全長300m)を、大きく更新した最大規模観で出現していたと評価されます。

 造山古墳に葬られている人物は、通説では大和(中央)政権にきっ抗した吉備(地方)政権の大首長とされています。しかし、最大規模観の達成、少なくとも築造時に限れば全国最大規模と判断されることと、倭国の大王陵に想定されている同時期の巨大な前方後円墳との墳丘形態の類似性から、倭国の政治体制の頂点である大王とみてよいように思われます。

 造山古墳を倭国大王陵とする観点は、吉備っ子の地元びいきなのでしょうか。

(岡山市教育委員会元文化財課長 出宮 徳尚)

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