長岡ミニ歴史館

米百俵の精神はこうして生まれた

人づくりはまちづくりの精神で復興

 北越戊辰戦争に敗れ、焦土と化した長岡のまちに、支藩である三根山藩(新潟県西蒲原郡巻町峰岡)から見舞いとして送られた米百俵。長岡藩大参事の小林虎三郎はこの米を藩士らに分配せず、国漢学校設立資金の一部に充てた・・・。
 この故事は昭和18年(1943)に刊行された、作家山本有三の戯曲「米百俵」によってひろく知られるようになり、小林虎三郎の精神は多くの人びとに深い感動を与えた。

国漢学校が開校


国漢学校之図(「長岡懐旧雑誌」下)

 「米を分けろ」と詰め寄る藩士らを前に、長岡藩の気風「常在戦場」の書幅を背にして、小林虎三郎が教育へ寄せる思いを熱く語る・・・。戯曲「米百俵」の一番の見せ場である。
 戊辰戦争に敗れ、長岡の人たちの暮らしは、その日の食事にも事欠くありさまだった。そんな中、小林虎三郎は「どんな苦境にあっても教育をおろそかにできない」と主張し、明治2年(1869)5月1日から、焼け残った長岡城下四郎丸村の昌福寺の本堂を仮校舎として、国漢学校を開校した。
 翌年5月、長岡の窮状を見兼ねて、支藩の三根山藩から見舞いとして、米百俵が送られてきた。藩士らは、当然分配されるものと待った。しかし、小林虎三郎は、分配しても一人当たりいくらにもならないこの百俵を元にして学校を建てることが、戦後の長岡を立て直す一番確かな道だと説いた。そして、反対する藩士らを説得し、米を売り、その代金を国漢学校の書籍や用具の購入に充てたのである。
 6月15日には新校舎が完成。それまでの藩校は漢学を主に教えていたが、国漢学校ではそれだけでなく、日本の歴史や国学、さらに洋学、地理や物理、医学までも、質問形式の授業で学ぶことができた。また、身分にとらわれずだれでもが入学できた。

小林虎三郎の精神


小林虎三郎

 若くして藩校の助教を務めるほど学識が深かった小林虎三郎は、嘉永3年(1850)、藩命で江戸に遊学。翌年、佐久間象山の門に入り、儒学、蘭学、窮理学(物理)などを熱心に学んだ。長州の吉田寅次郎(松蔭)とともに「二虎」と称され、師の佐久間象山からは「事を天下に為すものは吉田松蔭、我が子の教育を託すものは小林虎三郎」と言われるほどだった。
 虎三郎は安政6年(1859)、「興学私議」に教育論をまとめ、その中で「教養を広めて人材を育する」という考えを述べている。人びとの暮らしが豊かになるのも、国が富むのも、教育が左右するというものであった。
 米百俵をもとにしてつくられた国漢学校は、日本や世界で通用する人間を育成するための学校といえた。

三島億二郎の活躍


三島億二郎

 戊辰戦争後の苦難の中、大参事に任命された三島億二郎も、小林虎三郎とともに国漢学校の設立に尽力した。
 三島億二郎はまた、戊辰戦争で焼かれたまちの復興の先頭に立って、その高い見識で人びとを導いた。長岡の人びとの新しい文明への反応は早く、近代産業を積極的に取り入れ、まちの復興、殖産興業、教育の充実を図っていった。三島の業績は産物会所や女紅場の設立、長岡洋学校の開校、第六十九国立銀行(北越銀行)の創設、長岡会社病院(長岡赤十字病院)の開院など数えきれない。三島億二郎が「長岡復興の恩人」といわれるゆえんである。

人づくりはまちづくり

 明治3年10月の長岡藩廃藩により、翌年5月、国漢学校は分黌長岡小学校となり、わずか2年あまりでその名が消えることとなった。
 しかし、長岡には国漢学校の流れをくむ学校が数多く誕生した。そこからは明治憲法の起草に尽力した法学博士の渡邊廉吉、日本人初の解剖学教授で人類学者の小金井良精、東京帝国大学総長の小野塚喜平次、司法大臣の小原直、明治の代表的な洋画家の小山正太郎、外交官で漢学者の掘口九萬一とその子で詩人の堀口大学、連合艦隊司令長官の山本五十六ら、近代日本の発展に貢献した人材が多く輩出している。
 昭和20年8月1日、長岡は空襲によって、再び焼け野原となった。しかし、長岡の人びとは不屈の精神と自立心で復興に取り組み、全国の戦災都市の中でもトップの早さで、復興都市計画事業の完工式を行った。このとき、人びとが行動の指針としたのも、「人づくりはまちづくり」として受け継がれてきた米百俵の精神であった。


米百俵の群像(千秋が原ふるさとの森)

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