山田 方谷

山田方谷(やまだ ほうこく) 文化2年(1805)〜明治10年(1877)


山田方谷像 小倉魚禾筆
高梁市 蔵

 幕末から明治期の陽明学者、備中松山藩士。阿賀郡西方村(現岡山県高梁市中井町西方)に農商の家に生まれる。

 5歳で備中新見藩士の丸川松蔭(まるかわ しょういん)の門下に学び、神童と呼ばれる。

 板倉勝静(いたくら かつきよ)が備中松山藩主になると、抜擢され藩の要職を歴任。藩政改革を断行し、巨額の負債を償却するほか更に余財を生み財政危機を脱した。

 改革は、諸藩にも知れ、越後の長岡藩(現新潟県長岡市)の河井継之助(かわい つぐのすけ)、長州藩の久坂玄端(くさか げんずい)はじめ方谷に学ぶ者は全国に及び、その数は明治10年に没するまでに千人を超すと言われる。

1851年、備中松山藩校「有終館」の校地に、当時 の学頭、山田方谷が手植したと伝えられる黒松。
JR伯備線方谷駅そばに立つ、「山田方谷先生旧宅址」の碑。山田方谷は今でも、駅名として名を残している。

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