国吉康雄(1889-1953)は、岡山市に生まれ、1906年、17才の時にアメリカ西海岸に移民しました。ロサンゼルス周辺で過ごした最初の4年間は、労働に明け暮れる毎日でしたが、次第に画家になりたいと考えるようになり、1910年、ニューヨークを目指し東海岸へと旅立ちました。

 国吉のニューヨークへの移住は、日本人移民社会からアメリカ人社会への移住を意味し、国吉のアメリカ人として画家になりたいという意志は、この行動によって明確に形成されました。

 1916年にアート・スチューデンツ・リーグに入学するまで、生活苦にさいなまれながらも、国吉は画家になる夢を捨てず、リーグで得た師と友人たちとの交遊と勉学が、技術的にも哲学的にも国吉を芸術家に育て上げます。

 多くの幸運と出会いによって、そして何より才能と努力によって、国吉は1920年代には新進画家として注目され、1930年代には不動の地位を築き、1940年代にはアメリカを代表する画家として数々の栄誉に輝きました。国吉の作品は、全米の主要美術館に収蔵されています。

 国吉は、母校リーグを中心に後進の指導にあたるかたわら、美術家組合の初代会長として、アーティストの地位の向上のためにも尽力しました。困難な時代をアメリカ人画家になる事を夢見て懸命に生き抜き、見事にその夢を実現した国吉の人と作品を十分にお楽しみ下さい。

 年譜
1889年 9月1日、岡山市中出石町(現 出石町1丁目)に生まれる。
1906年 岡山県立工業学校(染繊科)を退学し、カナダのヴァンクーヴァー経由でアメリカ合衆国に入国、シアトルで就労。
1907年 ロサンゼルスに移る。働きながらロサンゼルス美術学校夜間部に通う。
1910年 飛行家を志すが断念、秋、ニューヨークに移る。雑役労働に追われながらも美術学校を転々とし、断続的に勉強を続ける。
1914年 インディペンデント・スクール・オブ・アーツに入学、2年間学び、ヨーロッパ美術の新しい傾向に触れる。
1916年 アート・スチューデンツ・リーグに入学。恩師ケネス・ヘイズ・ミラー、終生の友となる良き級友たちに巡り合う。
1917年 独立美術家協会第一回展に出品。前衛的な画家の集団ペンギン・クラブに加わる。秋、リーグより授業料免除の奨学金を得る。
1918年 アメリカ現代美術のパトロン、ハミルトン・イースター・フィールドの招きで、夏、メイン州オグンクイットで制作。秋にはブルックリンのフィールド所有のアパートを与えられ、フィールドの援助を受けることになる。ジュール・パスキンと出会う。
1919年 リーグの学友キャサリン・シュミットと結婚。生計のため商業写真家(美術作品の撮影)として働き始める。
1920年 リーグを退学。商業写真家として働きながら制作を続ける。
1922年 ニューヨークのダニエル画廊と契約、最初の年次個展を開く。ウッドストックの出版社が国吉の画集を出版。フィールド死去。
1925年 キャサリンと二人で初めてヨーロッパに旅行。滞在期間10ヶ月の大半をパリで過ごし、新たな方向を模索。パスキンの助言でモデルを使った制作を試みる。
1928年 制作上の行き詰まり打開のため、永住を決意して再びパリに渡る。集中してリトグラフを制作。年末、パリを断念、ニューヨークに戻る。12月、パリで制作したリトグラフ24点をダニエル画廊で展示。
1929年 ウッドストック(ニューヨーク市の北80マイル)に家を建て、以後、そこで夏を過ごす。ニューヨーク近代美術館の「現存アメリカ19人展」に選ばれ、アメリカの画家としての評価を不動のものとする。
1931年 病床の父を見舞うため、25年ぶりに帰国。岡山、東京、大阪で個展を開くがあまり注目されず。軍国主義の台頭に驚く。
1932年 2月、横浜出港、帰米の途につく。船中で父の訃報を受ける。キャサリンと離婚。美術家団体アン・アメリカン・グループの設立に関わる。12月、ラジオ・シティ・ミュージック・ホール中二階婦人化粧室の壁画を完成。
1933年 前年に閉鎖されたダニエル画廊にかわり、新たに契約を結んだダウンタウン画廊で最初の個展を開く。母校リーグで教職に就く。画廊との契約もリーグでの仕事も生涯続く。母死亡、ただ一人の肉親を失い日本との絆は切れる。
1934年 数多くの展覧会に出品。ペンシルヴァニア・アカデミー・オブ・ザ・ファイン・アーツ「第129回年次展」でテンプル・ゴールド・メダル、ロサンゼルス・カウンティ美術館展で二等賞を受賞。
1935年 サラ・マゾと再婚。グッゲンハイム奨学金を得て、サラを伴いアメリカ南西部とメキシコをスケッチ旅行。
1936年 ニュー・スクール・フォア・ソーシャル・リサーチで教え始める。左翼系の美術家団体アメリカ美術家会議に参加するが、まもなく退会。
1937年 ウッドストックのアトリエに暗室を設け写真に熱中する。
1939年 アン・アメリカン・グループの会長に選出され、1944年まで務める。ボルチモア美術館の「6人の現存アメリカ作家展」に選ばれる。ピッツバーグのカーネギー「第37回国際絵画展」で二等賞を受賞。
1940年 自伝的随筆「東から西へ」を「マガジン・オブ・アーツ」誌に寄稿。アメリカ北東部ニューイングランド地方をスケッチ旅行。
1941年 アメリカ中西部をスケッチ旅行。日米開戦により、国吉の法的身分は"外国人居住者"から"敵性外国人"となる。
1942年 アメリカ合衆国戦時情報局の要請により、日本人向け短波放送の演説原稿を書く。ダウンタウン画廊で回顧展を開き、入場料を中国救済基金へ寄付する。
1944年 ペンシルヴァニア・アカデミー「第139回年次展」でJ・ヘンリー・シャイト記念賞、カーネギー「アメリカ合衆国絵画展」で一等賞を受賞。
1945年 アート・インスティテュート・オブ・シカゴ「第56回アメリカ絵画年次展」でノーマン・ウェイト・ハリス青銅牌を受賞。
1947年 美術家組合の初代会長に選出され、1951年まで務める。
1948年 「ルック」誌が現代アメリカの10人の画家に選出。ホイットニー美術館が現存画家としては初めての回顧展を開催。シンシナティ美術館の「アン・アメリカン・ショー」に6人のアメリカ人画家の一人として出展、全米各地を巡回。
1952年 A・コールダー、E・ホッパー、S・ディヴィスとともにヴェネチア・ビエンナーレのアメリカ代表作家に選ばれる。アメリカン・フェデレーション・オブ・アーツの委嘱で、毎日新聞社主催「第一回日本国際美術展」のアメリカ部門の作品を選考、戦後はじめてアメリカ現代美術を日本に紹介。
1953年 移民帰化法の改正を受け、アメリカ市民権取得申請の準備を始めるが、果たさぬまま、5月14日、胃がんのため、ニューヨークで死去。

資料協力:株式会社ベネッセコーポレーション


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