◆後楽園の石と石造物と犬島石 (本文)◆

 まず私は、2度犬島を訪れ、犬島の石の特質を知ることから始めた。後楽園の石造物については、赤松義さんや、岡山県郷土文化財団の万城あきさんが一緒にたびたび調査してくれた。分かる範囲で石質と時代を書いてみたが、一応の判別であり、今後の検討を待ちたい。

 犬島の石は全て花崗岩である。最盛期は石を切り出す石工を中心に6千人の人々が住んでいたが、銅精錬、香料会社と産業を変えながら、今や100人を切る過疎の島に超スピードでなっている。

 私の観察によれば、犬島の花崗岩というのは、他の産地と比較して雲母の結晶が小さく、均等に疎に混ざっているという、大きな特徴を持っているようである。これがまた犬島の石が「長尺もの」に多いことと深く関係しているのである。

 わが国の石材の中では、花崗岩が強度的に最も強い石であることは間違いないが、花崗岩といえども幅がある。強さを減じる要素とは何か。雲母の結晶が大きければ、その分その花崗岩は当然弱く、長い石材を作ることは難しくなる。そうした犬島石材の特徴や長所が後楽園で実際に符合しているのであろうかということも興味の対象になった。

 また犬島の各所を訪問して観察すると、この島の南部の海岸部の石は面白い風化を示すものがある。少し硬い玉を抱えていたような状態の石が海食を受けて、すっぽりその玉の部分が脱落したようなホール跡をたくさん残した形になっているものである。中国の南画に出てくる「太湖石」のような姿であることから、特に江戸時代は似たものとして珍重したのかも知れない。この手の石が後楽園には結構たくさん配置されているのである。後楽園のこの種の石を見て、「このような石は岡山近辺ではざらにあるものではない」と元岡山大学の地質学の光野千春教授は言っていたが、このことは逆に、犬島にあるのであるから犬島の石の可能性は高い。

 また大きな平たい石を薄く切り出すことは、当時の技術ではまだ大変難しい。ところがこれも、初めからスライスしたようなものがドミノ倒しのように固まって犬島の南側の小岬の波打ち際にある。一枚ずつ剥せば六畳、十畳敷の広さの、例えば後楽園内の「大平石」のような石も難なく採れるのである。大立石、烏帽子岩のような岩は犬島港付近や精錬所跡の東の鼓の瀬戸という海峡を挟んだ対岸の沖鼓島の北やその東の白石島には幾つも転がっている。

 そしてまた入園者は誰も、後楽園の中にある灯篭等などというものは、ずっと以前からそこにあると思って見ている。しかしその中で、見る人には罪なことではあるが、昭和に建てられているごく新しいものも実は少なくないのである。

 これも不思議なことであるが、後楽園の庭石の多くが、それまで機能していたと思われる長年の水流等でつるつるの摩滅痕を持つおびただしい井堰石を転用して使われていることも分かってきた。何処の井堰からそうした石を運んで来たのであろうか。

 こうなってくると、築庭300年を機に今一度後楽園の石および、石造物を、少なくとも主だったものを、ここで一度整理し、石の種類、石の産地、転用石、設置の時代を再考しておくことは、決して意味のないことでは無い。それを知ることは後楽園の側面史を知ることであり、後楽園を科学的に見直すことでもあり、また今後これから後楽園をいかに維持するかに対しても一つの問題提起や新たな側面を持たせた資料となることであろう。


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