◆後楽園の石と石造物と犬島石 (前文)◆

 文化財という観点から考えてみれば300年という歴史は浅い。その上決して逃げたり失せたりしない大名庭園であるということも、そしてまた比較的多くの歴史資料も存在する体制や時期のものであるということも、庭園の実態把握は難しくないはずのものである。ましてや重量物の石で出来ているところの、その庭園内に鎮座まします石造物となると不変不動と思われがちである。
 
 ところが、今日園内に見る石造物が性格不明のものが少なくないばかりか、完成時期のままの姿でそこにあると考えるのは非常に危険であることが分かってきた。ちょっとのぞくだけでも、重いはずの石造物に大きな動きがあるし、何時からそこにあったのかもあまり確かでないという様相を呈している。
 
 例えば、最も良く売れている後楽園関係の著名な本の中でも、花葉の池のあの巨大な大立石(高さ7.5メートル、周囲23メートルで92個ほどに分割されている)と烏帽子岩(高さ4.1メートルで36個に分割されている)は築庭の後88年を経た天明8年(1788年)に出来たと紹介されている。
 
 大立石の後楽園への設置は元禄2年(1689)といわれている絵図(岡山大学池田家文庫)にはこれらの石はまだ記入されていない。代わりに橋懸りのようなものが描かれている。しかし元禄3年(1690)とされる絵図(同文庫)には大立石の記載があり、設置時期もこの頃と推測できるのである。あの巨大な石も、正さねばならない謎を含んでいるのである。つまり、ほぼ後楽園が生まれる当初から設置していたシンボリックな構造物と思われる。

 享保元年(1716)に完成したとされる「御茶屋御絵図」という後楽園全体を細密に描いた巨大地図(5.1メートル×4.5メートル)をくまなく調べて見てみると、大立石も烏帽子岩もやはり既に描かれている。

 あるいはまた、300年の歴史しか無い後楽園内に、南北朝期以前の宝篋印塔が設置したものとしてではなく転ぶように存在しているのは何故か。こうして後楽園の石造物や石をその気になって調べてみると謎や解明を待っているものが少なくない。

 そしてまた、石造物の石材産地から見ても実に興味深い。岡山城の石、池田光政による寛文7年(1667)からの和意谷墓所作りの開始と、そこに使われた石等、何れも犬島の石を使用したといわれている。後楽園の石も犬島から運ばれたものが少なくないはずである。

 果たして後楽園の石の中で、犬島の石の可能性があるものがどの程度あるのであろうか。
 
 こうして今回のテーマはとりわけ、「後楽園と犬島の石」の関係に主眼を置いてみたものである。


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