1. 吉備津神社(きびつじんじゃ) 目次へ次へ
本殿・拝殿の写真

本殿・拝殿

 岡山市吉備津にある。備中の一宮である。背後には備前国と備中国の境に位置する吉備の中山があり、周辺には古墳や寺院跡などの数多くの遺跡が分布する。
 吉備津神社の祭神は主神が大吉備津彦命で、『日本書紀』によると崇神天皇の代に、北陸・東海・西道・丹波の四道に派遣された皇族将軍の一人とされる。『古事記』では少し内容が異なっており、孝霊天皇の代に、弟の若日子建吉備津彦命と協力して吉備国を平定したことになっている。このほか、地元に流布されている吉備津宮の縁起では垂仁天皇もしくは崇神天皇の代に、百済の王子でもある鬼神の温羅が吉備国へ来て悪行をするので、朝廷の命によって大吉備津彦がこれを討伐したとされる。鬼ノ城・楯築神社・鯉喰神社など、この縁起に関わる遺跡が足守川流域一帯に認められる。また、温羅の首を御釜殿のカマドの下に埋めたことが起源とされる鳴釜神事は、上田秋成の『雨月物語』にも取り上げられている。

 本殿・拝殿(国宝)

 本殿は比翼入母屋造という、入母屋造を前後に連結した特異な檜皮葺の屋根構造をもつ。平面は正面七間・側面八間の柱間の大建築で、面積的には出雲大社の本殿の二倍以上である。白漆喰の亀腹の上にたつ。内部には中央やや後方に内々陣、その前方に内陣、これをめぐって中陣、前面に朱の檀があり、外側を外陣がめぐる。柱は円柱である。
 拝殿は、本殿の正面に接続しており、正面が切妻で、屋根は檜皮葺である。前と両側面に瓦葺の一間通の裳階をつけている。柱は本殿と同じ太さの円柱を用いており、本殿と拝殿はもともと一体のものとして設計された。
 本殿・拝殿には大仏様の建築手法が認められているとして、鎌倉時代初頭に東大寺大仏殿を再建した重源との関わりを指摘する考えが古くからある。

本殿・拝殿の図

本殿・拝殿(参考文献より引用)

 北随神門(国指定重要文化財)

北随神門の写真

北随神門

 北の参道石段上に北向きに建つ、三間一戸の八脚門である。屋根は入母屋造の檜皮葺、木部は丹塗り、壁は白壁である。通路西側の間には高い床を張り、高欄を設け、前後に仕切って前の間を板壁で囲って随神を安置している。室町時代中期の再建とされる。

北随神門の図

北随神門(参考文献より引用)

 南随神門(国指定重要文化財)

南随神門の写真

南随神門

 回廊の中間に建つ三間一戸の八脚門である。屋根は入母屋造の本瓦葺、木部は丹塗り、壁は白壁である。前面と背面の中央の間の中備に建てた双斗は花肘木となり、三重に巻いた白線の渦紋が正円に近い。
 この建物は延文二年(1357)の再建といわれ、吉備津神社の社殿のなかでは最も古い。

 回廊(県指定重要文化財)

回廊の写真

回廊

 本殿、御釜殿などの社殿群をつなぐ、総延長398mの回廊で、両下造の本瓦葺である。かつては吉備津神社の南800mの所にある新宮社まで延びていたともいわれるが、明確ではない。

 御釜殿(国指定重要文化財)

御釜殿の写真

御釜殿

 神社の台所(釜屋)と伝えられる社殿で、江戸時代に上田秋成の『雨月物語』にも、この社殿に関する鳴釜神事についての物語がある。現在の建物は慶長一七年(1612)に安原備中守知種が願主となって再建したものである。桁行七間、梁間三間、一重入母屋造、本瓦葺で周囲の四面とも柱間に二段の連子窓をつくりつけ、その下方を板壁にしている。内部は三本の円柱で南北二室に仕切る。北の室は床を一段高くして中央に二口一連のカマドを築き、釜をかけている。南の室は座となっている。

御釜殿の図

御釜殿(参考文献より引用)

 

位置

位置

 

見学 JR吉備線「吉備津駅」下車、徒歩10分

参考文献 巌津政右衛門『岡山の建築』日本文教出版株式会社 1967年
藤井 駿『吉備津神社』日本文教出版社 1973年
根木 修『吉備津神社』山陽新聞社 1995年

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