史跡・金山寺
山門(仁王門)
市重文

岡山市金山寺(かなやまじ)にある天台宗の古刹。平安から鎌倉時代の古文書(こもんじょ)には金山寺(きんざんじ)あるいは金山観音寺と記され、近世には銘金山観音寺遍照院とも呼ばれ、遍照院が寺中を代表する本坊としての役割を果たしていた。寺は、古文書や「金山観音寺縁起」、「遍照院中興縁起」によれば、749年(天平勝宝元)に報恩大師が創建し、大師自作の千手観音を本尊とし、京都清水寺の本尊と同木異体と伝えられる観音霊場に始まる。その後、1069年(延久元)、1178年(治承2)の二度に渡り回禄するも、その都度再建された。治承の再建にあたっては、備中吉備津宮の社家出身の葉上房栄西によって灌頂堂、護摩堂その他の堂宇が新造され、葉上流灌頂を伝え、栄西入宗時の伝来の品々が残されている。16世紀前半には、備前金川を本拠とする松田氏による日蓮宗への改宗を拒否したため、松田氏の焼き討ちにあって灰燼に帰した。その後、伯耆国大山寺から法印圓智(豪圓僧正)が来山し、岡山城主宇喜多直家の援助によって復興した。境内には、三重塔(県重文)、本堂(重文)、山門(仁王門 市重文)が南北に高低差を持って配され、護摩堂(県重文)や開山堂、灌堂、経蔵、客殿、書院、庫裏等の建造物が経ち並ぶ山上伽藍を形成している。

金山寺護摩堂(ごまどう)

1956年(昭和31)岡山県重要文化財(建造物)に指定され、桁行(けたゆき)3間(7.15m)、梁間(はりま)3間半(5.94m)の一重入母屋造、本瓦葺、正面一間向拝付の東面する建物で、正面半間通りに濡縁を張る。1575年(天正3)の建立と伝えられるが、円柱などの部材に当初材がみられるも、移築の可能性が指摘され、18世紀初頭の改造により、現状に改められたものと考えられている。室内は、奥の半間通りに仏壇をしつらえ、中央厨子には不動明王を安置する。板敷床の中央に護摩壇を設け、護摩壇の真上は折上げ天井とし火炉からの熱気を逃がす工夫が凝らされている。

金山寺文書 付金山観音寺縁起

1969年(昭和44)重要文化財(書跡典籍)に指定される。平安時代から室町時代にかけての古文書52通と縁起書1巻で、平安期3通,鎌倉期34通,南北朝期4通,室町期以降11通を数え、概して寺領保全に関するものが多い。ことに、1193年(建久4)の外題に俊乗坊重源の花押のある文書は貴重である。

金山寺本堂

1923年(大正12)旧「古社寺保存法」による国宝に指定され、1929年(昭和4)の「国宝保存法」をへて、1950年(昭和25)の「文化財保護法」の制定によって重要文化財(建造物)となる。1575年(天正3)岡山城主宇喜多直家の助力を得て、金山寺中興の祖と仰がれる圓智によって再建されたと伝えられる桃山期の建物。桁行5間(13.18m)、梁間6間(15.13m)、一重入母屋造、本瓦葺、正面1間向拝付きの南面する建物で、四周に濡縁を回す。内部は、前面2間通と両側1間通が外陣、中央奥の3間4面が内陣、前面2間通の外陣部は吹放しの時期があり、海老虹梁、長押等の彩色に風蝕がみられる。間仕切りの欄間や大虹梁等に施された彫刻、彩色は絢爛たる桃山様式の特色が発揮されている。

金山寺阿弥陀如来座像

1961年(昭和36)岡山県重要文化財(彫刻)に指定される。檜の寄木造、総高85cmを計り、典型的な定朝様の藤原仏で、彫眼を施した面相、流麗な衣紋などなかなかの佳作である。もとは漆箔塗りで金色に輝いていたはずであるが、金箔は剥落し素地を現している。「金山観音寺縁起」に記載された阿弥陀如来の由来譚から、俗に頬焼弥陀と呼ばれている。

金山寺三重塔

1992年(平成4)岡山県重要文化財(建造物)に指定される。1788年(天明8)に邑久大工の田淵繁枚によって完成された。本瓦葺、初層方5.06mを計る3間3重塔婆で、1929年(昭和4)に部分修理を受けているが、後補材は殆どなく一手である。初層及び化粧部材は欅造であるが、2層、3層の構造材には地松が多用されている。平成11年度から4ヶ年計画で、保存修理事業を行っている。



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