第3章 明治・大正・昭和の干拓

江戸幕府が崩壊し、藩は廃止されました。多くの武士は秩禄を奉還させられ、仕事を失ってしまったのでした。明治以降の干拓の特徴は、これら旧藩の武士に対して、優先的に仕事に就かせるためにスタートしたという点です。
そのころ興除新田の堤の外側には、まだ干拓されていない干潟や葦原がありました。ここが士族授産事業として最初に干拓が計画されたところで、1875年(明治8年)から築堤が行われ、一番開墾と呼ばれました。
そのまた外側が二番開墾(三菱による三菱開墾、杉山岩三郎による杉山開墾がある)、さらにその外側の広大な海の干拓計画、これが藤田干拓です。

着工までの経緯

明治10年代、旧岡山藩家老の伊木三猿斎や中川横太郎、西毅一らの士族、旧鴨方藩の阿部守衛らなどが、岡山県庁へ次々と許可申請をしました。
1880年(明治13年)、県庁職員生本傅九郎の意見を取り入れ、それらをまとめて開発しようと考えた県令高崎五六は、内務省雇工師ムルデルの意見を求めました。
ムルデル
翌1881年(明治14年)、ムルデルが児島湾の視察にやって来ました。ムルデルは緻密な調査をして、児島湾の干拓が可能なこと、そして岡山にとって有益であることを主張する「ムルデル工師の児島湾開墾復命書」をまとめ、内務省に提出しました。
  
高崎県令はこの干拓が国の事業として行われることを望み、国家予算を期待していましたが許可されず、民間による開発へと方針を変更しました。
しかしここで、先に名乗りを上げていた会社も、資金面の失敗から干拓を引き受けることを断念。生本は関西はじめ、東京方面までも出資者を求めて走り回りました。
ここで大阪の資本家、藤田傳三郎(でんざぶろう)の登場です。生本傳九郎に会って心を動かされた藤田は、鹿島岩蔵、杉村正太郎、田中市兵衛、阿部浩の協力を得て、1884年願書を提出したのです。
その後、高崎県令と生本の転勤や阿部との行き違い、地元住民の反対運動などあり、計画は中断状態が長く続きました。
しかし、藤田は単独ででもこの干拓をやり遂げる意志を固め、1887年(明治20年)、藤田の事業として変更届を出します。

 
しかし県下には激しい反対運動が起こっていました。それぞれが収まり、工事が着工されるには、さらに10年の月日が必要でした。

児島湾干拓第一区

1899年(明治32年)の着工に先だって、湾内の底盤、潮流、風向き、風力、雨量 など徹底調査されました。
けれども、「まったく載荷力のない底抜け沼」のような状態のところに「荷重一間当たり一万二,三千貫以上の堤防を延々十里も築こうというわけ」で工事は、予想以上の困難をきわめました。
試験的に従来の方法で堤防を築いてみたときのようすが、『松陰本山彦一翁伝記』に書かれています。
「約六四間の築堤線の前面に松丸太杭を打ちこみ、竹シガラを揺き、堤心は土を以って築き、前面 は二割、後面は一割五分の傾斜勾配を有する土堤を築かしめた。然るに盛土が六、七分の高さに達するや俄然沈下運動を起こし、僅々三〜四時間のうちに堤防全部は泥盤のうちに呑まれてしまった」
このように、想像以上の地盤の悪さに多くの失敗や苦難がありました。 
結局、丈夫な基礎工事をして、その上に石垣を築き、石灰真砂土のコンクリートなどですきまを埋める方法にたどり着き、堤防の高さは満潮時の平均より5尺(約150センチ)高くしました。
水門を築く際も軟弱な泥地に悩まされました。  
また、地盤の問題以外でも苦労はたくさんありました。期間中暴風雨に見舞われたことも3回、せっかく築いた堤防が決壊したり、コレラが流行して人夫が次々感染していったり、堤防の底から内部の水があふれだしたりと、多くの困難がありました。
それらを乗り越え、1905年(明治38年)、第一区462haが完成したのでした。
第一区は迫川地内宮川を境として、西は灘崎村へ、東は荘内村へ編入することになりました。現在の岡山市灘崎町西高崎、玉野市東高崎となっています。


干拓中の第一区。堤防が出来上がりつつある。(興陽高校蔵)


干拓直後。(興陽高校蔵)


完成後の一区、高崎農場。(興陽高校蔵)

1912年(明治45年)には、第二区1262haが完成し、藤田村が新設されました。
これは現在の岡山市藤田で、大曲、都、錦の3つの小字が定められました。堤防は現在国道30号線になっています。


干拓間もないころの二区。(興陽高校蔵)

●藤田農場
完成した第一区、第二区では、わが国で初めての会社直営、つまり、藤田組による農場経営が行われ、藤田農場と呼ばれました。


藤田農場事務所。(興陽高校蔵)

1916年(大正5年)まで地租が免除される土地約1200haを基盤とし、高崎、大曲、都、錦の4農区に区画して、直営と小作の2つの様式で経営しました。
水害、旱魃、塩害や用水問題、また激しい小作争議もありましたが、1947年(昭和22年)の農地改革で崩壊するまで、藤田農場として続きました。
一貫して大規模機械化農業を目指し、ヨーロッパの大型農機具を積極的に導入しました。
その影響から地元ではさまざまな農具の発明、改良が盛んに行われるようにもなり、岡山県は全国一の農機具生産地となりました。
また、大規模機械化農村として、全国の注目を集めました。


大正時代に使われた耕耘機「ユーチリター」USA産。(興陽高校蔵)


郷土で開発したものや輸入した農機具。(興陽高校蔵)


昭和40年頃使用のドイツ製コンバイン「クラース」。(興陽高校蔵)

第三区、第五区

1913年(大正2年)に認可。以来20年間、堤防予定線の内側10mほどに粗朶(そだ)、割り石を投下して拘泥堤の築造、地盤強化を図っていきました。
特に急流の集まるところには古い船に石を満載してそのまま沈め、そこを地盤にするという方法をとりました。1933年(昭和8年)、本工事に着手。
拘泥堤の上に丸太を置き、粗朶を並べてその上に石垣を築いていきました。排水樋門は9ヶ所に設けました。


海中に堤防を築く。(興陽高校蔵)

五号と七号の樋門は泥底にずぼっと沈み込んでしまうなど、軟弱な地盤にはここでも悩まされました。
 
潮止めは1935年(昭和10年)。堤防線より外側に木枠を建て、板を張り、防水シートをかぶせ、満潮時の海水の流入を防ぎます。
内側には杭を打ち、金網を張った木枠を建てかけ、防水シートをかぶせ、内側に留まっている水の流出をせき止めます。
そうして仮止めをしておいて、本築堤の工事を行うという方法でした。


粗朶の上に石を載せていく。(興陽高校蔵)


潮止め作業。防水シートをかけたところ。(興陽高校蔵)


樋門を造っているようす。(興陽高校蔵)

耕地内の用水路、排水路、道路などすべてが完成したのは1950年(昭和25年)、最初の工事から37年という長期戦でした。
その途中、1927年(昭和2年)には金融恐慌で藤田組の資金源である藤田銀行が倒産しました。しかし、工事は続行されたのです。
すでに整地された田では稲作の試作も行われ、1937年(昭和12年)から1943年(昭和18年)までの間に315戸の農家が入植。農地は6等級に分けて分譲されました。
反あたり、一等地は400円、六等地は300円でした。戦時色が強まった時期でもあり、干拓地は県の港湾用地や軍の飛行場としても使われることになりました。
1950年(昭和25年)ごろからは工場誘致も盛んで、工業用地としての整備も行われました。
用水は旭川水系の御津用水の余り水を利用しました。阿部池は、もと澪筋河口だったため海底が深く、干拓は困難であったことから、周囲に土堤をめぐらし、第三・五区の農業排水用のため池としました。
第三区・五区は現在の岡山市浦安、築港あたりの地域。

第六区

第三区・五区と同じように、財政難や藤田組内部の小作争議など、さまざまな問題をかかえながらも計画、実行されました。
1939年(昭和14年)申請。第三・五区と同じく大正の初めのころから石や砂を運び、海底の拘泥堤の準備をしていました。
1940年(昭和15年)より築堤の本工事にかかり、石垣と盛り土を進め、樋門は6ヶ所につくりました。
潮止め堤と用水、排水路の設備の一部が完成した時点で、1948年(昭和23年)農地解放が実施され、藤田組は土地の所有権利を失ってしまいました。
それ以後は、農林省が引き継ぐことになり、民営で始まり国営事業として完成した点でも注目されます。総面積は915ha。
入植者は主に第二次世界大戦の帰還兵であったと言われていますが、入植条件や耕作のようすなどはよく分かっていません。


堤防工事。(興陽高校蔵)


樋門工事。(興陽高校蔵)

第七区

当時、この地域は干潮時になると全体の88%が干潟となっていました。第二次世界大戦中、緊急食糧自給計画が定められ、1941年(昭和16年)農地開発営団が工事に着手しました。 
1943年(昭和18年)に藤田組から水面埋立権を譲り受け、1944年(昭和19年)本着工。終戦後は農地造成、食糧増産、失業救済などの目的で工事が進められました。
1947年(昭和22年)には農林省が引き継ぎました。潮止め工事は1948年(昭和23年)4月23日の未明。500人によって1時間半という手際よいものでした。
樋門は5ヶ所に設けましたが、児島湖締め切り堤防ができて後は、2号、5号以外はふさがれてしまいました。1963年(昭和38年)に完成しました。

○ 入植者
A、B、C、Dの4区域に分け、Aには1956年(昭和31年)までに280戸が、Bには1960年(昭和35年)までに64戸が入植しました。
区画は250m×60mの長方形で、それぞれの土地内に家を建てるという方式でした。
CとDの区域については、共同で機械化農業ができるように1区画は5ha(500m×100m)としました。家は中央道路沿いに建てることになっていました。Cへの入植者は127戸、Dは47戸でした。入植当時は塩害が激しく、苦難の生活でした。

七区という地名は現在でも残り、玉野市南七区、東七区と岡山市灘崎町西七区、北七区となっています。
第四区、八区も、その拠点となる高島を藤田が買い取り、準備を進めていました。しかし、水問題の見通しが立たず、1911年(明治44年)に断念しました。
これで、延べ1万数千haを造成した児島湾干拓は、すべてが終了したことになります。


整地後の第七区。(興陽高校蔵)

○ 水
日本は水利網の緻密において世界一と言われます。水田では、常にある一定範囲の水量が保たれなければいけないのですが、岡山は全国一の晴れの国でもあり、3本もの一級河川がありながらなお、その水量に対して潤すべき耕地面積が広すぎるとも言えるのでしょう。
いつの時代にも水問題には頭を悩ませてきました。特に、干拓農民は農地の新参者であり、水利用の新参者でした。
上流の耕地の余り水をもらう立場であり、「上郷のものには牛にでも頭を下げろ」といった言葉が生まれるほどの苦労がありました。

藤田地区は当初、畑地を目的として造成されましたが、強粘土質の土壌で畑には不向きということが分かりました。
排水も悪く、いったん豪雨になれば一面水浸し状態になることから、畑地としての利用をあきらめ、水田に計画変更されました。
しかし、藤田より上流にあたる興除新田でさえ用水不足の中、もっと厳しい状況でした。

水確保のための苦闘の歴史

1)突上つきあげ用水や貯水池の利用
倉敷川と笹ヶ瀬川が児島湾に注いでいますが、児島湾が満潮になり水位が上がったとき、その上の層の淡水を取り込む方法を突上用水といいます(下層には比重の大きい海水、つまり塩分濃度の濃い水がきます)。
しかし、これは誤って海水を引いてしまう恐れもあり、また旱魃などで川からの流入量が減ったときは利用できません。
広大な貯水池を設けたり、さらに貯水池内に田をつくったり、いろいろな方法を試みましたが、いずれも満足できる方法ではありませんでした。

2)上流と余水利用の契約
 上流地域から余った水をもらうことにして、用水利用についての長期契約を結びました。
・ 高梁川水系十二か郷汗入用水および大福用水(錦・都農区へ)
・ 高梁川水系八か郷丙川用水および西用水(大曲・高崎農区へ)
・ 旭川水系米倉用水(錦・都・大曲・高崎農区へ)
・ 旭川水系当新田用水(錦・六区農区へ)

●用水路掘り下げ工事
汗入用水

十二か郷用水(じゅうにかごうようすい)と八か郷用水の合流点では排水に困り、人工の川を開き、水門をつくって足守川に流していました。
この水に目をつけ、ここの水門から水を引こうと考えたのが汗入用水です。
水門のある関戸から延々藤田農場まで開削しました。現在の岡山市汗入のあたりは岩盤も固く、最大の難所で、汗入という地名は人々の汗が染み入ったことから名づけられたと言われます。


汗入用水工事のようす。(興陽高校蔵)


汗入用水工事のようす。(興陽高校蔵)

汗入用水1909年(明治42年)に完成し、藤田農場の重要な水源になった。


八か郷用水、十二か郷用水の余水、悪水を興除新田の東用水路に導水するために設けられた関戸水門。岡山市妹尾崎。


泉水樋門。六間川の排水をよくするため関戸水門脇から開削された水路にある。改良を重ね、現在は電動になっている。岡山市妹尾崎。



丙川樋門。当時のもの(上・興陽高校蔵)と現在のもの。岡山市藤田(大曲)

淡水湖の完成
児島湾の中ほど、岡山市築港から岡山市郡までを堤防で仕切り、淡水湖を築き、その真水をポンプで汲み上げ水田へ配水する――そんな壮大な計画がスタートしたのは1951年(昭和26年)でした。
工事では、海中に粗朶を沈めて捨石を落とすことから始まり、サンドポンプ船で河口の土砂を吹き上げて形づくっていきました。
9人の死傷者を出しながら、1956年(昭和31年)には潮止め工事が完成、昭和33年に締め切り堤防が完成しました。
全長1558m、総工費は当時にして10億円を超えています。湾内面積1100ha、貯水量 2600万トン。人造湖としては見本としたオランダのアイセル湖についで世界第2位の規模です。
灌漑用水として利用するときは、揚水機を利用しました。

淡水湖の塩分の濃度はまもなく農業用水として使える1000分の8以下になり、農家はポンプアップして使えるようになりました。
1970年代には淡水湖の塩分濃度は1000分の0・2〜0・3になり、工業用水としても使用できました。
この人造淡水湖「児島湖」が出来上がったことにより、安定した水が確保できるようになり、平安時代の頃からのずっと悩んできた水の問題がやっと解決されたのでした。
これによって、児島湾干拓のすべてが完了しました。児島湾干拓(第一区〜第七区)の総計は5486haとなりました。


淡水湖堤防完成。(興陽高校蔵)

児島湾付近の地図。干拓が進んでいったようすがよくわかる。(興陽高校蔵)









児島湾開墾平面図。(興陽高校蔵)

地域に残る干拓の痕跡


第一区の堤防。岡山市灘崎町。


藤田神社。


藤田翁頌徳碑。岡山市藤田の藤田支所敷地内。


妹尾川三連樋門。岡山市藤田の藤田支所付近。


桜の馬場樋門。岡山市藤田、妹尾川沿い。現在(2002年)、移築。

 

ムルデル(1848年〜1901年)

A.T.L.R・Mulder。幕末から明治の初めに幕府や明治政府、各藩などが産業や教育の発展のために招いた外国人を「お雇い外国人」と言います。
ムルデルは明治政府の雇った一等治水工師。1848年オランダ生まれで、1879年(明治12年)に日本に来ました。
1881年から1890年の間、岡山に滞在し、その間に児島湾を現地調査して内務省に提出した「ムルデル工師の児島湾開墾復命書」は、とても詳しく児島湾が分析してあり、干拓工事に大きな影響を与えました。
児島湾干拓の設計ほか、利根川、信濃川、淀川、富士川などの河川改修や、函館港、東京港、横浜港、熊本県三角西港などの港湾工事、広島の宇品干拓、宇品港の設計なども担当しました。
ムルデルは、川の源流から河口まで、すべてのつながりを大切にする考え方で、干拓の地だけでなく、それぞれの川もくまなく見て歩きました。
そして「樹木すでに伐採せられ、もしくは株根のみわずかに存し、または全く禿裸したる山」にとても驚いたと言われます。
このころの土砂流出は特に激しく、旭川河口部の堆積量は年間で約15cmにもなったという記録があります。森林伐採を禁止し、木を植えることの意義を訴え、土砂崩れや洪水への対策を呼びかけました。
このことから岡山は、「砂防発祥の地」と言われるようになりました。


生本傅九郎(1848年〜1909年)

現在の岡山県赤磐市河本の出身。岡山県の勧業課に勤務していました。
元武士に仕事を用意することの必要から、児島湾の干拓に情熱を傾け、県令に意見書を出したり、ムルデルの測量 にも立ち会い、資金集めのために走り回ったりしました。
藤田傳三郎の心を動かし、実現に向けての重要な役割を果たしました。その後、兵庫県庁へ転勤となりましたが、晩年は岡山市の番町のあたりで過ごしたと言われます。
業績をたたえられて、傳三郎から「生本開墾」という10haほどの土地をもらったとも言われています。


藤田傳三郎(1841年〜1912年)

1841年(天保12年)長州(山口県)生まれ。家は酒造業を営む豪商でした。高杉晋作を師と仰ぎ、尊皇倒幕運動で走り回りました。
明治維新後は「産業の育成こそ急務」と、実業界に身を置くことを決意。1869年(明治2年)大坂に出て、弾薬ブローカー、軍靴製造業などを手がけ、特に西南戦争では大もうけしました。
1881年(明治14年)二人の兄と合名会社藤田組を設立。土木建築や鉱山の経営を始めました。
1884年(明治17年)、生本傳九郎の申し入れから児島湾干拓に乗り出しました。1899年(明治32年)着工。
そのほか大阪硫酸、大阪紡績、阪堺鉄道なども手がけ、岡山県内の事業では、柵原鉱山、片上鉄道、神島化学、山陽鉄道などにも参加しました。
1885年(明治18年)には大阪商工会議所会頭となりました。1912年(明治45年)死去。藤田公民館には藤田傳三郎翁頌徳碑があります。

笠井愛次郎

徳島県出身。ムルデルの方針を、実際に行える工事法として詳しく設計した工学士。新しい技術を、どんどん考え出していきました。