邑久郡上阿知村の大師堂にて3人の孤児を引き取った石井十次は、早速岡山に帰り門田屋敷の三友寺に「孤児教育会」を創設しました。 明治30年には岡山孤児院尋常高等小学校を設立し、以後全国的規模で孤児の収容を行い、いろいろな人々からの援助を受けながら事業を拡大していきました。
三友寺山門(さんゆうじさんもん)
三友寺は、寛永9年(1632)池田光政が鳥取藩主から岡山藩主になったとき、播磨の国(現在の兵庫県)から岡山に移転しました。 昭和20年(1945)6月29日未明の岡山大空襲により本堂などは焼けてしまいましたが、山門だけは柱の一部と鯱(しゃちほこ)の尾が被害を受けたものの、修理を受けながら現在まで残されています。