石井 十次の軌跡

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プロフィール

石井十次は近代日本を代表する開拓的社会事業家で、岡山孤児院を創設しました。
現在の宮崎県に生まれた十次は、1882(明治15)年、岡山県医学校(現、岡山大学医学
部)に入学しました。1887(明治20)年、病気療養と医学実地研修を兼ねて邑久郡上阿
知村(現、岡山市上阿知)に転地、診療所の代診を務めました。
その頃、診療所の隣の大師堂において兄妹2人を連れ生活に困っている旅の母親に同
情し、その男児を引き取りました。他に2児も預かり、岡山市門田屋敷の三友寺に孤
児教育会(のちに岡山孤児院と改名)を創設し、その後各地の孤児を収容、1906(明治
39)年には1,200人にも達し、全国にその名が広まりました。

西暦 年号 年齢 略歴
1865 慶応元   ・日向国児湯郡上江村馬場原(現、宮崎県高鍋町)に高鍋藩士の父万吉、母乃婦子の長男として生まれる。
1871 明治4 6 ・藩校明倫堂の流れをくむ島田学校に入学する。
1878 明治11 13 ・高鍋の晩翠学舎で漢学を学ぶ。
1881 明治14 16 ・内野品子と結婚。
・上江小学校の教師となる。
1882 明治15 17 ・宮崎警察署の書記となる。
・岡山に出て天主教に入る。
・岡山県甲種医学校(岡山大学医学部の前身)へ入学する。
1884 明治17 19 ・岡山基督教会牧師金森通倫氏より受洗。
・新島襄の「同志社大学設立趣意書」を読み、人材養成には教育が重要であることを再認識する。
1887 明治20 22 ・脳病療養と医術実地研究のため邑久郡上阿知村(現、岡山市)へ移る。
・1人の男の子を同村大師堂に救う。
・3名の孤児救済を始める。
・三友寺(現、岡山市門田屋敷一丁目)の一角を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を開く。
1888 明治21 23 ・神戸において渡辺亀吉に面談し、益々孤児教育の必要を悟る。
1889 明治22 24 ・「人は二主に仕うること能わず」との聖句に従い、孤児救済に一生を捧げることを決意し、医学書を焼き医学校を退学する。
1891 明治24 26 ・濃尾大地震の震災孤児救済に着手する。
1892 明治25 27 ・名古屋に震災孤児院を設ける。(明治26年に閉鎖)
1894 明治27 29 ・日向茶臼原(現、宮崎県)の開拓に着手する。
1895 明治28 30 ・品子婦人永眠、吉田辰子と再婚する。
1896 明治29 31 ・岡山に商業部、高鍋に日州活版所をつくる。
1897 明治30 32 ・私立岡山孤児院尋常高等小学校を設立。
1898 明治31 33 ・音楽幻燈隊を編成して寄付事業を始める。
・大原孫三郎(倉敷紡績の創業者)と知り合う。
1900 明治33 35 ・日向茶臼原の事業を中止する。
1905 明治38 40 ・日向茶臼原の事業を復興する。
1906 明治39 41 ・東北地方の凶作による孤児救済に着手。
・岡山孤児院の孤児1,200名にのぼる。
1908 明治41 43 ・院児10名を伴い茶臼原へ移住する。
1910 明治43 45 ・孤児院の茶臼原移転を本格的に始める。
1912 大正元 47 ・茶臼原移転をほぼ終える。
1913 大正2 48 ・私立茶臼原尋常小学校を設立。
・茶臼原憲法をつくる。
・長女友子、洋画家児嶋虎次郎と結婚。
1914 大正3 49 ・腎臓病が悪化し、1月30日午後2時永眠、茶臼原墓地(宮崎県西都市)に葬られる。
1926 大正15   ・岡山孤児院解散する。

 

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